呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

風力発電と蠢く町政(102)

      学校が見せたがらないもの

           学校訪問記(窪川高校編)

 昨今の学校と行っても、実の所たった二つの地元四万十町の県立高校、窪川高校と四万十高校である。この2校は自分の出身校ではない。出身校は追手前高校である。ここも見せたがらないものがあった。授業である。長年英語塾をやっていたので、母校の英語の授業を、随分な時を経てふと参観したくなったのである。それも時の校長が、Iという私の同期であったのだ。結果から言えば、断られた。解せない。全く解せない。腹立紛れに高知県教育委員会とメールでやり取りした。「なぜ、校外の人間(保護者以外を指す)が授業参観ができないのか。公教育とは社会全体の物ではないのか。」と今と全く同じ語調で主張したのだ。メールの返信内容は、以下のようなものであった。「受験を控えて高校生がナーバスになっている時期なので配慮願いたい。それに授業を見られることは生徒の個人情報の侵害になる懼れがある。」実に道理が通らない理屈である。部外者に授業を見られたぐらいで削がれる集中力であれば、どの道、受験で大した成果は出せないだろうし、それにそもそも授業参観でなぜ、生徒のプライバシーの侵害になるのか、さっぱり分からないではないか。個別の成績を探りたいなどと言ってる訳ではないのである。この過剰反応にして過剰防衛はどうだろう。何だか無意味に窮屈で敷居が高いこと、尋常ではない。この時、偶々追手前の同期に高知県医事薬務課課長Nがいたので、県庁を訪ね、彼女にコメントを求めてみた。つまり「あの同級生のI君の母校追手前の学校運営どうよ。」という意味である。彼女はさすが優秀な官僚であった。Iの学校運営個別事案には言及せず、曰く、「学校は非常に手強いところである。献血車さえ、校内に入れない。」ウワッ、ではないか。「治外法権」の世界だったのか。ここまで来るとさすがに異常の領域である。が、執念深さでは人後に落ちない私は、それでも食い下がった。学校近くのコンビニで見かけた追手前の男子生徒に聞いたのである。「授業を部外者に参観されたら、プライバシーを侵害されたように感じるか。」である。その子の答えは簡潔明瞭であった「別に、そりゃノートとかじろじろ見られたらいやですけど。」が、その答え振りからして、学校を訪問した誰かにノートをじろじろ見られた経験がありそうであった。恐らく授業研究とか何とかで授業参観に来た他校の教員等にノートをじろじろ見られたことがあるのであろう。じろじろ見たのが教員である限り、これは全く生徒のプライバシーの侵害にはならないらしい。とにかく学校は部外者を入れたくなく、部外者からの評価、批判を病的に忌み嫌っているのである。地元高校は少人数校であり、さらに追手前のような進学校ではない。人数が少ないことは、「生徒の特定化につながる」と、個人情報保護を楯に、対外的に情報を遮断しがちである。正しく過去に町営塾の成果を聞き出そう試みた時にも、「成績は上がってきているが、個別の数値は出せない。生徒の特定化につながる。」と応答されたことがある。応答したのは現教育長、当時政策監官兼人材育成推進センター室長山脇和章氏であった。山脇氏は、「成績はしっかり上ってますから。」と付け加えたが、元来疑い深い私は、実物を見なければ信用できないのである。成績チャート一覧を作ればいいのではないか。生徒名の記載がなければ、生徒と面識がない私には、特定化は不可能である。年間5千万円相当の町費を投じてやっている事業である。成果数値の検証は必要である。そこは保護者や本人に事前に了解を取ればいい。町営塾開設時には、わざわざ議場まで来させて、両校の代表生徒に、「私達のために町営塾で支援してもらって有難うございます。」なんて議員に向かって、挨拶させたことを思い出す。「支援」とは四万十町費の投入であり、全ての補助事業は成果を問われるのであり、町営塾が、例外、聖域ではないということ位高校生は理解するはずである。私に英語の授業を見せたがらなかった追手前高校は、実は部外者に、授業本体を査定されることが嫌なのではないか。校長には授業の質の担保責任があるのである。とすれば町営塾も同様である、「生徒のプライバシー」にかこつけて実は、町営塾事業の成果や質を問われること自体を忌避しているのは町本体ではないだろうか。ところで学校は、授業を見せたがらないばかりか、「総合的な探求の時間」の全体計画表や年間予定表さえ、部外者には見せたがらないという驚きの事実が発覚した。少なくとも地元四万と高校と窪川高校はそうであった。町営塾「じゅうく」教室長によれば、同じ人材育成推進センターに席を置くコーデイネーターが両校に派遣され、「総合的な探求の時間」の企画立案に少なからず係わっているという。町費が入っているのに、そもそも県費で運営されているのに、地元2高校の管理職の面々は、非常に警戒心が強く、「閲覧させるが、持ち出しは困る」との一点張りを崩さなかった。仰天もののガードの堅さである。窪川高校は、総合的な探求の時間の企画立案に、町から派遣されたコーデイネーターが「総合的な探求の時間の企画立案」に全面的に係り、その上「教育と探求社」という教育コンサルタントによるプログラムを導入している。プログラム名は、「ソーシャルチェンジ(SC)」である。ネット検索すれば、

部門紹介⑥ソーシャルチェンジ | QUEST CUP 2020 / 教育と ...

https://questcup.jp › program-sc
社会課題探究コース「困っている人を助け、笑顔にするために考えた企画」部門 「ソーシャルチェンジ(SC)」は、 自ら課題を発見し、その解決を探求するプログラムです。生徒たちは、困っている人を助け、笑顔にするために考えた企画を発表します。
がヒットした。「困っている人を助け、笑顔にするために考えた企画」という部分に引っ掛かりを覚える。困っている人を助けたいとして、それが簡単であれば、人は簡単には困らないのではないか、とか、誰もが困っている人を助けたいと思うとは限らない(他人に不幸は蜜の味)とかの、人間社会や」人間性の真実がすっぽり覆い隠されているからである。子供に嘘をついてはいけない。嘘は泥棒の始まりである。論より証拠、「私達のために町営塾で支援してもらって有難うございます。」なんて地元高校生から謝辞を述べられた四万十町議会の面々は、それから間もなく、町民を丸ごと騙して、裏でこっそりまんまと給料を45000円分多く、町の金庫から泥棒したのである「困っている人を助け、笑顔にするために考えた企画」は、アクテイブラーニンング(主体的な学び)と呼ばれている。給料をこっそり巻き上げた四万十町議会の面々(高校生からすれは祖父のような年齢)は、年代的にはアクテイブラーニンング(主体的な学び)の受講体験は0であるが、実に主体的な「アクテイブシニア(活動的な高齢者)」振りを発揮しているのである。この45000円は、誰に教わった訳でもない、ただひたすら、選挙という手仕事で長年町内をはいずり回っているうちに身に付いた、生活に密着した知恵ともいえる、自ら取得した町民騙しのスキル(技能)が齎した成果物でもあったのである。それはそれとして、気になるのが、「ソーシャルチェンジ(SC)」という言葉のすわりの悪さである。窪川高校K教頭言わく、「「ソーシャルチェンジ(SC)」とは「教育と探求社」が提供している課題解決型のプログラム名です。」それ以上の質問を受け付ける考えは一切ないというこわばった表情で説明されたのである。「木で鼻を括った」という表現がぴったりの対応をするK教頭であった。ざっと見た全体計画や年間予定表中には、外来語が頻発していたので、気になったので、一々聞いた。意味が了解しにくいからだ。これってごく普通の感覚ではないだろうか。
※ポートフォリオ(提出物)
注釈、資産構成というのが元来の意味で、ここでは生徒の活動の個別構成内容を指しているらしい。その活動歴構成を記載したものの提出を求めると言う事である。ビジネス用語の教育界浸潤傾向が著しい。「教育と探求社」社長は元日本経済新聞社社員、なるほど、なるほど。
※ソーシャルチェンジ
注釈:辞書には社会変動、社会変革とある。高校生がどの程度、家族血縁共同体から地域社会、一般社会、市民社会等で使用されている曖昧多義な「社会」という概念を理解しているかが非常に心もとない。課題の発見の前に「社会」の定義の発見が必要なのではないか。そのそも学校教員が、学校社会専属所属員ではないのか。その社会への帰属は教員と生徒とでは、態様が全く異なる。教員と違って生徒は学校社会の通過者である。そして学校によって否応なく評価される。
※コーデイネーター
注釈:調整役か、「連絡、調整、協議」は役所の三種の神器である。この三種の神器の統合概念が「連携」である。翻訳すれば、「内部で万事宜しくやっているから、部外者立入り不要」である。特に教育委員会という名の役所がこの傾向が強い。この仮説を裏付けるかのように、K教頭は、教育委員会内部では用語が通じるけれども部外者には切り取りが生じ、誤解を招く恐れがあるので、文書を交付できない。」と言ったのであった。この教頭は、教育委員会村に心の住民票(忠誠と連帯)を置く種族であり、私とはどうも種族が異なり、従って言語体系が異なるということらしい。異なる言語は紛争の元という解解か、このようなタイプの平和主義の副作用である「視野狭窄」は、議会の病理でもあったことを思い出す。
それでも、元々語源が気になるタイプである私は、「もともと英語ですよね。それがどのような意味合いで使用されているのか。」と用法及び意味を聞いた。K教頭は、わざわざ語句を指さして、「カタカナですよね」と、私に聞き返して来たのである。この文字が英語がカタカナかというところに、なにがなんでも収斂させたいという強固な意志のようなものを感じた。いやはや、である。忠誠のなせる業か、自尊感情が非常に強いタイプなのか、目下判断できない。所でやはり気になるソーシャルである。使用例からsocialの語感を探ってみれば、
social  action :  社会運動
social climber:上流階級に入り込もうとする人
socila l contract:社会契約
social  democracy:社会民主主義
socila distanace: 社会的距離も一躍人口に膾炙するようになった。是もいち早くコロナかに見舞われたのが英国であったせいであるだろうし、英国は検査と感染者の追跡が日本と桁違いに徹底しているらしいし、コロナウイルスの変異の遺伝子解析技術も高度なものを持っているらしい。間違いなく日本よりコロナ対策が抜本的により科学的ではあるのだろう。そのコロナ対策の陣頭指揮を執ったボリス・ジョンソン首相だ。この人こそ自身が感染し、本当に困り、本当に助けられ、本当に笑顔になった人」でもある。この人首相になって間もないころにコロナに感染し、イギリスのNHS( nationa health center)傘下の病院の集中治療室で回復したのである。ボリス氏は、この回復時に、「社会は本当にあった。」と叫んだのだと言う。NHSの医療従事者の献身的な治療によって文字通り命拾いをしたこの首相の叫び「社会は本当にあった。」の「社会」は、同じ保守党のかっての党首にして首相であったマーガレットサッチャー首相の言葉、「社会というものはない。あるのは、自己責任である。」の「社会」を指していると言うボリス・ジョンソン首相は医療従事者を、エッセンシャルワーカー(essential worker、必要不可欠な働き手)と呼び、 国民に彼らへの感謝を呼びかけた。丁度その頃、四万十町役場の線路上の通路にも地元高校生による、ブルーカードに感謝の言葉が記された、「医療従事者に感謝しよう」運動が展開されていたことを思い出す。日本社会における医療従事者への感謝の背景には、医療従事者への誹謗中傷や、失政による医療現場の疲弊の報道があったと記憶するが、医療現場の疲弊と医療現場への誹謗中傷がなぜこのタイミングで重なり合って出てきてしまうかは、「課題の発見と解決」のようにはいかない、長い長い、複雑に入り組んだ英国とは異なる日本社会特有の歴史的文脈というものがある。「感謝」と同時に高校生に発見を促すべきは、本来は、この実に込み入った一筋縄ではいかない日本社会の「政治(間接的な意思決定)と人の感情や心情(センチメント)に係る現象の相互関連的応答的脈絡とでもいうべきもの」言い換えれば「日本的社会関係」の発見なではいのだろうか。それ抜きで、教員が生徒に対して「課題の発見と課題解決、主体的な学び、アクテイブラーニング」を提供すこと自体が新たなる消費活動にしかならなく、ひたすら空虚なだけである。教員自身の中に、自らが身を置く学校社会の社会的文脈を発掘するほどの探求心と虚心坦懐さがあれば、そこに教育コンサルタントなどの出番は本来ないはずではないか。「文化的施設」も同様である、図書館コンサルタントARGの岡本真氏も、外来語を不必要に多用する人物である。我々四万十町民は、高校生から大人まで、例外なく東京からやってくるコンサルタントに英語起源の目新しい外来語を、まるで知育玩具なんかみたいに提供してもらい、あやしてもらっているのに違いない。とすれば、我々は、皆な保育園児であり、官は官業の存続のためのエッセンシャルワーカーである保育士を、コンサルタントと称して公金で雇い続けているということになるのではないか。外来語によって慰撫されているのが本当の所誰であれ、官と官が次々と繰り出してくる官業の元手は税金である。これだけはくれぐれも忘れてはならない。高校生に教えるべき社会の仕組みの根幹であり、骨格はこれであると、私は確信している。「我々に課せられる税金によって、我々の住む社会をどう運営されたいか。」これを自分の言葉で表現できる力こそ、学力の到達点である。この力こそ、主体性の礎でもあり、また同時に主権者教育の目的地でもあるのではないか。その意味では「文化的施設」こそ主体性なき行政の本質の現れなのである。だからこそ、それを逆手に取って、主権者教育を「総合的な探求の時間」を使って高校生に提供できる恰好の機会が到来しているのだ。その趣旨で、今までの行政側のスタンスを再整理する。
1文化的施設基本構想検討員会に窪川高校T校長が委嘱されていた。
2.文化的施設中高校生ワークショップやSTEM教育関連で小学生向けプロフラミング教室が開催された。
3.町の文化的施設広報には、「子供たちの未来への投資」としての文化的施設建設が強調され続けている。文化的施設では、STEM教育を実施すると書き切っている。
つまりそこまで、「文化的施設」は、小、中、高校生をターゲットにしているのである。それでは、手始めに、地元2校で、「総合的な探求の時間」に上記三種の教材を持ち込んで生徒に自由討論させたらどうだろうか、という企画である。今現在進行中の町の最重要政策課題について、三様の視点を提示した文書を教材に主権者教育を実施するのである。
教材(a):町が広報している文化的施設チラシ
教材(b):750筆の署名入りの文化的施設建設の再考若しくは中止を求める嘆願書
教材(c):文化的施設建設への批判的チラシ
教材は揃っている。主権者教育提供の格好の機会が到来している。生きた教材である。
四万十町議会本会議場を使うのが望ましい。昨年は「子供議会」であった。今回は「中高校生議会」である。オブザーバーは、「文化的施設整備推進準備室」と「四万十町議会教育民生委員会」と「教育委員会(狭義の4名編成の合議体としての」)である。中高校生間の自自由討議の後半は、オブザーバーとの意見交換会である。これをケーブルTVで中継する。どうだろうか。誰か話に乗ってもらいたい。それこそ学校にも議会にも町にも新しい風が入るのではないか。学校も議会も町も、いずれも大がかりな喚起が必要ではないかと思うのである。学校と議会と町を一堂に会してシャッフリングするのである。そうすれば同一部族内部でしか通じない言語体系は「環境の変化」により変容を余儀なくされる。変革の前提は意識の変容である。これこそが本当の社会変革(social change )への可能性の道筋ではないだろうか。今「地域未来留学」の広告が、私のPC画面に頻出している。「地域未来留学」を主宰している「地域・教育魅力化プラットホーム」という一般財団法人の理事長は、リクルートキャリア初代社長である。「越境」が人を変えるというタイトルの対談動画の広告である。私見では「越境」は、物理的な移動を必須要件とはしていない。自治体や学校が「元リクルート社上がりの起業人(町営塾の受託者ファウンデイングベースを含む」ベネッセコーポレーション」「教育と探求社」等の顧客であり続ける限り、そこに身を置く生徒達は「越境者」などになろうとは決してしないだろうと思う。コマーシャルにより社会的に差別化された商品(学歴、職歴も含む)への購買欲へと自らのアイデンテイを同化させていく過程に既に組み込こまれている身辺の大人達(親や教員その他)から、暗黙の「社会的価値」を注入され続けて育ってきたからである。彼らは決して「越境者」など志向しないだろう。彼らは大それたことを内実化はしない。自己否定しないで済む(ただし他者との比較において)普通のただの「消費者」に甘んじるだけの謙虚さを既に自己の中に確立していると、想像するのだ。
注釈:「地域未来留学」というのは 四万十高校が導入している高校生全国募集制度の事である。都市圏の高校生が過疎地の高校に入学することを「越境」と評し、その刺激によって人間的に成長できると謳っている。少子化を背景とする「全員入学」と「学力低下」の実に裏をかいた巧妙な差別化、商品化である。因みにこの「地域未来留学」で起業したリクルートキャリアの初代社長である颯爽とした風貌の水谷智之氏が代表理事を務める「地域・教育魅力化プラットホーム」という一般財団法人は、過去に法定の貸借対照表のHP記載のないまま、HPで広く寄付を募っていた。それを指摘すれば、「今後公表します。」だったが、今またHPから消えている。法定の「役員等の報酬の支払い基準」をいつの間にかHPから削除していていたこの地の「四万十公社」と同様の行動形態である。彼の地とこの地という異なった地で発現している同質の行動形態の発見、これもまた、社会の新たなる側面の発見ではないのだろうか。発見は続く。
西原真衣