呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

風力発電と蠢く町政(87)

       「ニーズ」って言うな

 ニーズという言葉がある。需要とか必要性とか普通の日本語ではダメなんだろうか。分からない。ところが行政職員は、外来語を好んで使う割には英語の素養がない。「それ何の略語ですか」と聞いて、即答できた行政職員を知らない。新しい事業の議会への説明時にはに必ずと言っていいほど聞きなれない外来語が登場していた。聞き慣れない外来語の導入はいかにも新しい事業コンセプト(これも外来語)の導入のように聞こえ、それが齎す錯覚から, ついつい斬新で画期的必要とされる事業だと思ってしまうのである。考えてみれば他愛ない事この上ない。老害政治家等イチコロである。彼らは恥を忍んで知らない言葉の意味など決して聞かないので、行政からすれば、実に騙しやすいのであろう。かくも騙されやすい彼等とて「ニーズ」の意味はさすがに知っているだろうが、その「二ーズ」とやらの実態を確認する意志はなさそうである。住民説明会が終わったばかりの複合文化施設の「ニーズ」の出所も町民的には実に不明極まりなかったからだろう、反対署名が出回っているという噂も聞いた。無理もないことである。この前四万十会館で開催されたシンポジュームを例に挙げてみれば、パネラーが外から3名やって来た。外来者は外来語を駆使する能力にたけている。「パネラーが順番に講演し、講演毎に各コメンテーターが解説し、その後でパネラーによるパネルデイスカッションと続き、最後に聴衆との質疑応答で締めくくります。」と事前に説明されていた。ところが、パネラーは和製英語でパネリストが正解、元々Panel とは、講師団 審査団と辞書に載っている。集合名詞である。panelistとは、公開討論会の講師, とある。中尾町長と山脇教育長が聴衆の前で展開される公開討論会の討論者から外されたことは、前回書いた。町長も教育長もコンサルタントに外来語連発で煙に巻かれているだけであり、彼らの側にはその自認さえなく、シンポジュームでパネルの一員として登壇しても他のパネリストを相手にデイスカッションの相手など到底無理である。まるで後進国における、大枚をはたいた、身の丈に合わない文化啓発事業の戯画のような一幕であった。ああ心の底から恥ずかしさがこみ上げてくる。そしてこんな町に生を受けた我が身を呪いたくなるのだ第一、図書館長の諮問機関でされている図書館協議会がつんぼ桟敷に置かれたまま、その議事録作成とHP掲載が副館長によって1年近く放置されるという、信じられないようなことが起きていた。図書館に優秀な職員が配置されたことはない。優秀な職員は、農林水産課課長、建設課長、財政班長となり、教育委員会は傍系であり、館に常駐する図書館正規職員は殆ど窓際扱いなのだろうと想像する。露骨なまでに予算額の多い順番に優秀な人材が配置されている。農林水産課や建設課の事業は、雇用や選挙に影響力のある、中尾町長言うところの「経済的恩恵を受ける町民」の利害得失が大きく絡んでいるので、議会答弁等での失言が用意周到に回避される必要があるからである。その為に優秀な人材はまずそっちに回すのである。図書館に配置された正規職員に図書館業務について質疑してきた私には、容易に想像できる。だからこそ、町が今までどれほど図書館を重要視せず、蔑ろにしてきたか、そしてその町の姿勢が、回り回って最終的には行政の仕事の本質的な質を規定しているかを知っているのである。今複合文化施設の模型作りに着手し、新複合文化施設一角にソニーグローバルエデユケーションセンタータワーを作ると息巻いている知人の陶芸家武吉廣和氏は、「図書館は町の頭脳である。」と明言する。私としても異論はない。町の頭脳となるべき町職員の頭脳のレベルが、その町の図書館に現れているのである。議会図書室等言わずもがなであるが。町長は複合文化施設説明会の場で、「平成29年度の町政懇談会で図書館の新設が要望された」ことを受けて、図書館建設に舵を切ったと, いう様な事を言った。その意見とは、企画課で町民座談会記録から探してもらった。以下である。

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推察するに全て実に母親的な、子供の文教環境整備への要望である。それはそれで理解できる。確かに文教環境が整っているとは言い難い。けれども旧庁舎跡に大きな複合文化施設ができたところで、東又、川口、十川からどうやって図書館まで行くのだろう。親が車で土日に連れて行くしかない、とすれば、土日休みで車で子供を送迎できる親ということになる。とすれば親の勤務先は、役場か農協か四国電力である。少し考えれば分かる事である。つまり親の経済条件が子供の図書館環境に直に影響するということになる.だから今公立図巻を新たに作るとすれば、窪川に一館、大正に一館、十和に一館である。窪川にある本館は手狭過ぎるし、場所がよくない。大正分館は振興局の3階で、これも場所が分かりにくく、利用しずらい。十和には図書館がない、これは実に危惧すべき事であり、実に空恐ろしいことでもある。中尾町長は、「図書館がないことが、いかに地域社会に大きな本質的な禍をもたらすか」を全く理解していない。むしろ図書館がないことから、この町長は、「議会との融和面」で大きな恩恵を受けているのである。職員人件費からすれば僅かな予算増で議員報酬を引き上げれば、「議会として今まで以上に議会運営に協力し、執行部には悪いようにはしない」という暗黙の了解が成立した後の議会がどのように変質したか、見るに見かねるほどの弛緩の一途を辿ったのである。議会放送を見れば一目瞭然である。ここで。図書館のない十和地区出身の四万十町議会の面々である前々議長橋本保、前議長酒井祥成、堀本伸一、橋本章央この4者の議員報酬引き上げ前の議会発言を振り返ってみる。

橋本保:天下りという言葉は品がない。(私に対して)

    議会は組織である。議会運営委員会で決まったことは遵守すると議会運用基    

    準165条に書いている。(議員報酬引き上げ時に議運メンバーから反対討討論が出たことを受けて、緊急に開催した選挙前議会運営委員会で)

堀元伸一:今日は全部録音する。議会運営委員会は議会の上層部である。

町民に騒動を引き起こし、議会に混乱をもたらした。町長に謝罪した。自分には謝罪がない。(上記の選挙前緊急集会で)

議員報酬引き上げは個人的には反対だったが、これは議会で決まったことだと町民に説明できなければならない。我々議員は町民を指導する立場であるので、説明力がいる。(議員報酬引き上げ議案審議中の本会義で)

 酒井祥成:(議員研修の講師を)五流の政治学者と書いたか。これからの議会運営がやりにくくなる。(政治倫理審査会で私に対して)

口を慎め、議事録に残るぞ。(笠が池ため池工事の会計検査院の立ち入り調査結果の報告を建設課より全員協議会で受けた場で、私が、農林水産省の工事設計申請書審査ミスを指摘した際

橋本章央:議会運営員会で決まった事(議案への賛否)と異なる立場であれば、議場では黙って座る。討論には立たないというのが、議会運営の常識である。十和ではずっとそれでやって来た。(上記の選挙前緊急集会で)

因みに酒井祥成議員は、議会運営委員長の委員会報告に、「異議なし」と記すべきところを、「意義なし」と記していた。自身の選挙公報にも、「大局と記すべきところを「対極」と記していた。この識字力の低さが、この人物が議事録を公開したがらない本当の個人的理由であり、「議事録に残るぞ」という恫喝は、この人物の内面の反映である。彼らの識字力は議会という場では、私の知る限り、以上の如く発揮されていたのだが、今の四万十町立図書館副館長(十和出身)が、図書館協議会議事録の公開年越しに放置できたのも、十和という同じ土壌から来る同じ思考回路、精神構造があるからであろう。「統括主幹、四万十町立図書館美術館副館長という肩書を持つ副館長は、図書館協議会の議事録作成が彼女の業務であることの根拠を、「図書館協協議会議、事電話録作成が、その他図書館の目的を達成するために必要な事務に該当するから」と恐らく電話の向こうで行政組織規則の自分の職務内容に該当する箇所を見ながら私に説明したのだが、「図書館の目的とは何か」と聞けば「図書館の円滑な運営」と答えたのである。ここが、完璧に倒錯している。

       図書館の設立目的は、図書館の円滑な運営にある

という命題は、論理矛盾である。議会における十和出身議員達ももこれと全く同一の命題を私に臆面なく突き付けてきた。「議会の設置目的は議会の円滑な運営にある」である。つまり、「議会は議会それ自体のために存在する」と言っているのであり、議会の代表性や有権者による代表制の付託は、有権者から求められれば、説明責任を回避できない、などというロジカルな制度理解を彼らに求めても、実に、馬に念仏状態であったのである。それはそうであろう。「議会は円滑に運営するためにあるのだから、運営組織としての議会運営委員会が議会の上層部である」と、堀本伸一議員は信じて疑わないのである。何というグロテスクさだろうか。この人物は地方自治法や会議規則の趣旨を恐らく理解していない。この人物が書いた私への最初の懲罰である「公開の場での陳謝文の朗読」文中に多々地方自治法と会議規則の曲解が見受けられたので、別の機会に適示したい。適示する必要があるのである。なぜなら日本は、法事国家であると諸外国からは見なされているからである。十和出身議員のそのような奇態な思考回路に対して、大正、窪川出身議員達も、異を唱えるどころか全く無力であり、むしろ彼らの獰猛なハングリーパワーに恫喝されているような観さえあった。議員報酬引き上げ時に,十和出身者(前半2年議長橋本保、議会運営委員会委員長酒井祥成、後半2年議長酒井祥功、議会運営委員長堀本伸一という布陣が何を意味するかは判然としている)によって首謀された議会という群れの共通利益の獲得戦略(議員報酬引き上げを指す)を己の選挙戦のために土壇場で妨害した、4人の議員が謝罪を迫られた際に、彼らは全員、首謀者質に対して「議会運営の基本が分かっていなかった」と謝罪したのである。これが「議会とは町民福祉の向上のために機能させるものではなく、議決権という権益それ自体の保持を目的として運営するものである」という命題の議会支配が確立した決定的瞬間であったのだ。四万十町議会史に残る歴史的瞬間である。是非四万十公社地域情報センターに議会史アーカイブとして保存してもらいたい。

 さて人権条例制定検討委員会である。1回目に事務局が委員に配布した人権条例制定検討の経緯を記した資料中に、平成29年度第3回定例会で堀本伸一議員が「部落差別解消の推進に関する法律」について一般質問した際に、中尾博憲町長、川上哲夫教育長から引き出した答弁が記されていた。「人権条例制定を視野に入れる。」「人権条例制定を前向きに検討する。」等々である。関係筋によれば、毎年1回部落解放同盟十和支部と町長、副町長、教育長、十和振興局長の副課長以上全員が出席し、非公式な話し合いの場が持たれているという。議事録が作成されていない以上、非公式としか表現しようがない。方や高知県人権課は、県HPで、高知県部落解放同盟連合会から県に提出された要望書や話し合いの議事概要を公開している。四万十町も是非そうすればいいと思う。人権条例制定検討員会を傍聴して、なぜ今人権条例制定なのかということが非常に分かりづらいまま、制定ありきで回数だけを重ねている感が否めないと痛感するし、担当課が把握している人権侵害事案に係る立法事実を事務局が部外秘として扱う(会議終了後回収する)とういう倒錯ぶりに至っては、実に異様な感じしかしないのである。高知県は、橋本大二郎知事時代の闇融資事件の裁判結果を受けて徹底した情報開示に踏み切ったのではないかと推測する。その方が風通しが良いに決まっている。万機公論に決すべしである。透明性は「恫喝」を無力化する。透明性や情報開示の絶大な効用はここにある。「透明性によってのみ、言論が徐々に健全化し、同時に精緻化し、進化し、発展、成熟していく。」というのが私の持論である。秘密性と密室性が「恫喝」の存在基盤である。「恫喝」は人の内面を決して変容させない。むしろ憎悪と差別意識を煽るのであり、これは誰しもある程度の人生経験があれば、会得していることだろう。私自身のことを言えば、問責決議、辞職勧告、公開の場での陳謝文の朗読、出席停止とすべて全会一致の議会決議の対象となり、新聞や議会だよりで大々的に報道され、一躍悪名が轟いた。その結果私の中に何が残されたか、それは当時の議会メンバー全員に対する根深い憎悪と蔑視感情である。それがこのブログの発信の大きなエネルギー源となっていることは否めない。だから私は傍聴に赴き、彼らの行状を記録し、記述し、分析し、批判し、不特定多数に向けて発信し続けているのである。これが目下私の執念である。「議会とは,町民の反感を周到にかわしながら、議決権という特権を執行部に相対して最大限に発揮して議員利権の最大化を実現すべく運営するものである」という命題は、長年十和村で議会と融和策を取り行政の持つ予讃編成権、予算提出権を淵源とする行政利権と議決権を持つ議会利権を水面下で「相対取引してきた封建遺制の残痕ともいうべき悪習である。いわば領主に俸給された関所検閲役が執行部と議会の関係性である。この悪習が私西原真衣との対面場面で,副町長森武士が全職員向けに通知した、四万十町議会議員への対応について(議長よりの回答)」として表出した。驚くべき内容であった。まるで江戸時代の「お触れ」のようであったのだ。曰く「文書で質問しない。電話で質問しない、メールで質問しない。必ず来庁し課長を中心に相互の信頼関係に基づいて簡潔な質問には対応されたい。」が本文であり、欄外には、「この回答内容からの逸脱があれば直ちに課長に通報するように」と書かれていた。発信元は、森武士副町長である。当時の議長は、橋本保であり、森武士との間に、「議会とは、議決権という議会の権益の行使について議長を統括責任者とする組織であり、その議会の運営組織として議会運営委員会がある」という実に奇態な認識の共通基盤があったのである。これを「十和方式」と一先ず呼ぼう。この通知文は、彼らが長年行ってきた「恫喝と迎合」の政治文化が余すところなく発揮されている貴重な文献である。愚劣で陳腐な点では往年の旺文社の受験参考書シリーズ名に因んで「傾向と対策」と称してもよい。私は、是非この通知文を図書館に収集してもらい多くの町民の閲覧に供してもらいたい。これは全く本気でそう思う。結論的には、その「恫喝と迎合」の不健全極まりない政治文化は、「図書館の目的は図書館の円滑な運営である」いう答えしか繰り出せない、生気に乏しい、思考停止型の職員を排出する結果を確実にもたらしたという事である。これは、今の副館長に限ったことでは決してないが、この人物は典型的である。本来図書館は、知り、考え、判断し、参画する力を養うために存在するものなのではないだろうか。その参画する力こそが、その一員として生きるに値すると感じることができる共同体の価値観の創出に向けた共通の基盤となるのである。恫喝と迎合しか見たことがない人間は、決して開かれた自由な人間にはなれないし、開かれた自由な人間であろうとしなければ、知り、考え、判断し、参画することに、また決して喜びや希望など見いだせないのである。私の好きな言葉に、イタリアはベネツイエの公立図書館長の言葉がある。「図書館は民主主義を成立さすための社会共通の基盤である。」それは「知ることがなければ、参加できない。」からであるという。私の図書館観と根底が通じ合う言葉である。しかし、悲しいかな、私は,四万十町立図書館行政に関わる人々の中に、この認識を見たことは、一度とてない。歴代館長職にあった生涯学習課課長、山本弘光氏、辻本明文氏、宮地正人氏、林瑞穂氏しかりである。教育長もそうである。中平克喜氏、宮崎勲氏、水間淳一氏、川上哲夫氏、山脇和章氏しかりである。だから今複合文化施設建設に期待できるものは何もないというのが、私の本音である。有体に言えば、新しい革袋に古い酒を入れるのに12億円の公費を投下するという愚行は止めるべきではないだろうか、という問題提起をしたい。それより、行政が為すべきは、町民との対話である。この構図が人権条例制定にもある。つまり出所不詳の自作自演的なニーズ」ではなく、具体的で個別的な町人との対話の場の創設である。それが有れば、コンサルタントはいらない。言い換えれば、1昨年本会議場を使ってまでやったような「子供議会」の前に、関心と参画意志による「大人議会」を開催すべきではないか、という事である。それが「リアル議会」を淘汰し.進化させていいくための装置になることは間違いないだろう。子供の文教環境整備を言うなら、まずそこではないか。図書館をテーマにした、利権と選挙ではなく、関心と参画による大人間の真剣な、臨床感のある討議を子供達に見せるのである。子供達はそこで、学校と家庭以外の場に、自分に開かれた「共同体」の存在を感知するはずである。自分が生を受けた地域社会が、自分に開かれているかどうかを感知する力は、子供に勝るものはないのではないだろうか。その意味で、子供は我々の試金石なのである。

 

西原真衣