呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

地方議会から日本を見る(4)

          請願叶わず

 

 「四万十町文化的施設事業の休止を求める」請願は、7対6で否決された。請願署名者としては、予測通りとはいえ、新ためて憤懣やる方ない。投票行動も完璧に予測取りであった。先に結論ありきの議会だということである。互いの議論に影響を受けないということは、即ち議論の本質が失われているということではないか。賛成派と反対派の論点が全く噛み合わないのだ。

一先ず質疑、討論内容を議員毎に概観すれば、

賛成派

中屋康:後援会の会計が、この事業の受注者となりそうな公算の強い地元土建業の会長職にある人物である。地元土建屋への利益誘導の感が免れない。地元利益誘導=自己利益誘導(次回の票の確定)という方程式の実効性が成り立っている議員

林健;子息が地元森林組合工場長であり、当人も森林組合理事であり、元林業家である。大型箱物公共工事への資材提供の機会逸失を避けたいという意向が働いている感が免れない。

酒井祥成:生業は、特産林業(シイタケ栽培)であり、議員歴が長い。行政手続きの正当性と補助金の返還リスクや有利な起債の機会逸失を常々訴えてやまない。元々行政の番犬のような思考回路の持ち主である。おそらく自前の体感に基づく「行政権の絶対性が自己の権力の根源である」という思想の持ち主。従って行政監視、行政批判という視点は希薄。前近代的であること夥しい。

槙野章:農協職員上がり。定見に欠け、投票行動においては常に執行部提案側につく典型的な日和見主義者、討論に立つことはまずない。論自体の中身がないのであろう。

執行部支持を背景に補助金の地元誘導を図ろうとする傾向が常々見受けられる。又普段の議員活動のあらましは「御用聞き」である。住民を戸別訪問し、使える補助金等を案内して回るのである。これが悪いとは思わない、が当時者が直に町に聞けば済むことである。「使える補助金」を直に行政に問い合わせる事に臆する(行政との距離感がある)一般町民の御用聞きをしているのである。この地の地域性に根差す隙間産業的な議員活動に専心している模様。が、この「御用聞き議員」は、町民の意見を2分するような政策論が絡む投票行動においては、「補助金」の出何処(執行部)には、決して逆らわないという行動が定番。このような議員が多数票で議席を得て来たことは、結局民度の問題だろう。

吉村アツコ創価学会の組織票で上がってくる、座席を温めることが仕事である議員

この人物は、質疑がまずない割には、なぜか一定間隔で一般質問を行う。漢字の読み間違いが多発する所を見れば、公明党による作文提供の感は免れない。議席を温めつつ投票行動においては、牧野章議員と同様、常に執行部側につく。公明党が派遣元の派遣社員の様な議員である。是では町民代表と言えるのか、甚だ疑問。常時、公明党自体の見識を疑いたくなるような低レベルの議員。

橋本章央:元製材業、生半かな知識で議場パフォーマンスを展開する癖がある。立ち回りの総体を見れば、明らかな自己利益誘導型。地元票へのアピール目的での賛成票の感が強い。この議員の場合、「にわか仕立て見せかけ正論」が敗退に追い込まれる箇所が唯一の見所。この箇所が一点あった。修正案提出時に、勢いよく、「事業休止に賛同する議は、休止したらどうなるかを町民に示すべきである。それを議論した上での休止賛成か」と修正案提案議員である古谷議員に質疑した際、古谷議員が、「休止とは一定期間休止若しくは事業の見直しに進むということを意味すると理解している。まずは、3600筆近い署名に正面から向き合うことが議員としての誠意ある態度」と答弁した途端、橋本議員は、「よくわかるました。これ以上質疑はありません。」実にあっけなく引き下がったのである。実に珍妙な対応ではないだろうか。その意味で橋本議員は、実に底が浅い。このような子供騙し底の浅さで急十和村議会以来、議員が務まってきたということこそ、合併後もその風土が何ら変遷、淘汰もされず、議会に持ち込まれているということにこそ注意がいるのではないか。彼らの地域性に基づく政治風土が実に色濃く今の四万十議会に影を落としている。

緒方正綱:この人物は地元土建屋の社員と議員を長年兼業している。地元土建屋が潤う公共事業には決して異を唱えない。防災が得意分野。中屋康後援会事務所の看板の文句は「町民の皆様と共に」であるが、緒方正綱の場合は「土建屋の皆様と共に」であろう。この議員においては、地域密着型公共工事の情報取得=組織票の獲得という方程式が成立している模様。結論から言えば、いささかうんざり感の漂う無個性にして徹頭徹尾自己利益没入型のサラリーマン議員。

 

反対派

古谷幹夫:資材高騰に伴う追加継続費7億の修正動議の提出者、嘆願書(700名)、陳情、請願書(3596名の署名)に表現された「事業見直し」を求める民意の尊重を訴えた。文化的施設に関しては首尾一貫して規模に疑義を呈してきた。が、執行部に対して、「町による図書館利用者アンケートの実施」や住民投票の実施を促してはきたが、教育民生常任委員会委員長の立場での町民意向調査アンケートの実施には着手しなかった。その辺りの出遅れ感や踏み込みの足りなさは否めない。事業推進一択の町は アンケートを実施するにしても、「文化的施設の建設を望むか」という民意の根底を知ろうとするような項目は決して設定しないだろう。町側は、元々民意がそこにない事を熟知しており、そのことに頓着していない。古谷議員はその辺の認識が極めて曖昧模糊としていないだろうか。これでは到底執行部を出し抜けない。町側に情報戦で、完敗してしまうのが落ちである。

 

武田秀義;陳情や請願の協力、後押し議員であった、一貫して規模、立地、複合施設である必要性に疑義を呈してきた。今回の討論でも、「議決によって認めてきたとは言え、票は伯仲していた。合併特例債は返還すればいい、全有権者の1/3に相当する民意が無視され続けてきた。」といつになく強い口調できっぱりと言い切った。「サービス計画は素晴らしい.これは規模縮小でも実現できるのでは。」と本質を突く論も展開していた。ここは評価したい、だが古谷議員と同様、いささか遅きに逸しているのである。武田議員は、「なぜサービス計画を先に立てなかったのか。そうすればこのような規模が必要ないと理解できる。」と畳みかけてはいたが、基本構想、基本計画策定時にそれを指摘すべきであった。結局武田議員も図書館業務本体に全く通じていないなかったからこそ相手側の思うツボに入ってしまっていたのである。「サービス計画」策定のために大河原信子氏という外部人材の登用が必要であったのは「四万十町には図書館業務の何たるかを理解している職員が皆無だった」からであり、それは議会も同然であったということである。そもそも美術館はおろか図書館に普段馴染みのない人々が、図書館構想を持てるわけがない。だからここもコンサルタントに外注した。町に雇われたコンサルタントは町の意向を酌んだ作文の専門家である。自明のことではないか。「そもそも町立図書館が公設され、公費で運営されていることの意義に関する認識」自体が執行部、議会、町民を含めた町全体に欠落していたのである。ただ図書館は無料貸本屋の如き姿で、そこにあっただけである。もし議員の誰かが、「そもそも町立図書館が公設され、公費で運営されていることの意義に関する認識」本体を中尾町長にぶつける直球質疑が早い段階で繰り出されていれば。事業構想の根幹となるべきこの認識が中尾町長に完璧に欠落していることが、誰の眼にも露わになったはずである。議会質疑の深度が浅く、狙いが定まらないような質疑=疑似餌では釣果は全く期待できない。議会質疑の本来の目的は 釣れた魚の真の姿を衆目に晒すことにある。議会とは物事を明らかにし、明らかにすることによってより良い町政の方向性を見出していく場なのである。そのために必要不可欠なのが、議員各自の独自の情報取得と塾講を経た視点である。視点の構築には長期に渡る自己研鑽を必要とする。結局議会総体として、それができていない現実そのものが、町民の目に晒されたと言えるのではないか。

 

下本昇:下元議員は、執行部に対してだけでなく、議員対象にも自分の独自視点を提示してきた。例えば、「子どもの未来への投資」をスローガンにしてきた文化的施設構想に関しては、ずっと以前から、「学生の動線上の学園通りへの立地」を提案したり、「複合施設ありきの規模設定」に疑義を呈してもきた。この人物は商工会会長職時代にも、岩本自前の門前市等の実施主体の責任者でもあり、旧庁舎跡の立地理由として「窪中心市街地活性化」の困難さを体験している立場でもあった、がこれが、大正、十和出身の議員には全く響かない。彼らの独自視点は、徹頭徹尾別の所(自己の地元票が絡む情勢判断のみの視点)にあり、端から聞く耳を持たないからである。下元議員は議長になった頃、文化的施設調査特別委員会の設置を議会に投げかけた。が、「誰も乗ってこなかった。」ということも議会関係筋から耳にしている。

 

村井真菜「十和では図書館が取りざたされた事もない」と討論した。是は事実であろう。そのような文化風土であろう。請願紹介議員でもあり、地元で署名活動に熱心に取り組んでいたとも聞く。「民意のこれほどの分裂がある以上、町民が自発的に参加したくなる「コミュニテイ」づくりにはならない」と身振り手振りを交えて力説した。この辺はこの人物の本意だろう。この辺りの心情は理騎できる。が、議会はただ心情を披歴する所ではない。村井議員自身が町が文化的施設事業に織り込んだ「コミュニテイ機能」とは何か、について本質的な質疑を積み上げてはいない。平成28年の基本構想策定時に町立図書館内で実施された利用者アンケートは集計分析活用されることもなく、やっつけ仕事みたいな単なる自由記帳欄に記入された意見の一覧表が基本構想検討委員会で配布されたのみであったのだ。この一覧表を入手した当方は議会事務局を通じて全議員これらを配付してもらった。議会質疑に活用して欲しかったからである。が議員の誰も、そのアンケートの集計分析を試みなかった。村井議員もその一人である。町がコミュニテイの創生を本気で志向するならば、まずアンケートから何らかの図書館利用者コミュニテイの全体的な意向の傾向を救い上げようとするだろう。が、町は、

そこに記帳された図書館利用者の200を超える意見は、集計もされず分析もされず、掬い上げられることはなかった

議会も又同じ態度を取ったということである。だからこそ村井議員一人が本会議という表舞台で「いくらコミュニテイ分断論」を心情豊かに訴えても、「本人はそう感じるんだろう」以上のことは伝わってこない。まず櫂より始めよなのである。その意味で味押し並べて議会は誰も本来できる事をやっていない。たった一人でもやればいいのである。言葉に迫力と説得力が欠けているのはそのせいではないか。

 堀本伸一:この人物は今回は、「請願採択=町民主権の尊重」を議会基本条例やまちづくり基本条例を引き合いに出して主張した。「過去の予算を通した責任、第2次総合振興計画中に書き込まれた「複合施設」も議会が認めて来た(賛成派の言い分)ことの重みは十二分に理解するが、議決結果に従わないことは違法ではない。」と切り返した。議決があって、今回の継続費の追加予算計上がある、これが議決権が執行権に与えた権能であり、議決の重みとやらの実質である。賛成派の「議決結果に従うべし」というのは都度の表決権そのものを否定するような暴論である。都度表決できる制度になっているではないか。従ってそれは無責任でも何でもない。が、今回の「請願採択=町民主権の尊重」この堀本議員の言い分には、当方の知る堀本議員の過去の発言と明らかな矛盾があり、怪訝に思わざるを得ない。当方が議員であった時、全員協議会という議決の場ではないところで、単なる議会内部の申し合わせに過ぎない案件を指して、「我々は町民から選ばれた。従ってここ(全員協議会)で決めたことは町民が決めた事である。」と当時の橋本保議長と共に、私及び傍聴者に対して強く言い放ったのである。町民は「我々がここで決めた事(議会内部の申し合わせ)」など毛頭知らされていない。町民が知り得ないこと(議会内部の申し合わせ)に基づいて運用されている議会が町民主権に基づき、民意を反映する意思があるとはさすがに言えないだろう。ここ辺りにこの人物の発言の裏表がある。本会議では町民主権と言いながら、町民の目の届かないところでは、「我々は町民から選ばれた。従ってここ(全員協議会)で決めたことは町民が決めた事である。」と言い抜けることに躊躇がない。この言い分からすれば「我々は町民から選ばれた。従ってここ、本会議で決めたことは町民が決めた事である。町民が決めてきたことの延長にある今回の従執行部提予算を修正する所以はない。」と主張すべきではないか。堀本議員は、時と場を錆び分けた狡猾で老獪な二枚舌を使い分けている野ではないか。得意技は印象操作。是は当方に対する議会決議である辞職勧告及び懲罰時にも如何なく発揮された。

 

水間淳一:今回で賛成から反対に鞍替えした。その真意は、請願の署名数の多さや漏れ聞こえてくる次期町議選の立候補状況から票読みの情勢判断にありそうである。と言うもの、請願の趣旨には全く言及せず、合併直後教育長時代の図書館視察体験を唐突に持ち出して、「狭い、老朽化が著しい」という課題を認識していた。」と振り返りつつ(賛成派であったことの言い訳か)、その後に是も突如、「天の時、地の利、人の和」などという孟子の言葉を持ち出して「「人の和」が合い整っていない(請願署名を指す)ので反対する。」と結論付けたのである。討論内容に賛成から反対への変遷も含めた骨格と論理がほぼ見えてこない以上、選挙への影響という情勢判断が最も強い本人の鞍替え動機であるということを自白しているような討論内容となってしまったのではないか。この人物のいつもの行動パターンである。「選挙が政治」という持論の持ち主。

 

 過去に議会に席を置き、その後も議会傍聴を続けてきた当方の視点からの、今回の投票行動を議員毎に概観してみた。各議員には、其々の癖があり、個々の利害得失及び思考回路がある。多数決とは、本来バラバラな民意を代表するための民主的手続きにおける意思決定に至るための最終手段である。されど議決を経なければ予算は執行できないのである。そのような強大な権限を有する議会には、それなりの、制度、法律 条例、財政、施策等に対する知見が必要とされる。民意の察知力は言うまでもない、当たり前のことである。これらの各次元での各議員の水準の総体的な見立ては、正直な所あまり芳しくない。「表決の結果の尊重」が紋切り型に賛成派議員から主張されたが、この表決の重みは、単なる地元票、利害得失を超えた、各議員の知見の豊かさと確かさによってのみその質が担保されるのはないか。民主主義(議会)が機能するか否かは一重にそこにかかっている。本来バラバラな民意の代表制の質である。表決の重みを結果論だけで語るのは魂胆丸見えの御都合主義である。議決権という権能だけを振りかざしているかの如き有様ではないだろうか。表決の質はここでは不問にされている。表決の結果だけが強調され、その質が重みの評価基準とならないような議会は、各自が自分の名前で選ばれる意味もどこにあるのか分からなくなってなってきはしないか。そう考えれば、結局選ぶ側の判断の重みが表決の重みに直結していることに気が付く。常日頃から議会形式の重鎮気取りの酒井祥成議員の思想、「行政権力の絶対性が議員権力の淵源である」(権利意識と主体性に目覚めていない、より力のある側への服従、追従を旨とし、議会とは、絶対的な行政権が持つ予算の下賜配分に与るものという思想、つまりマグナカルタ(代表なくして課税なし)が未だ内面化されていないという持つグロテスクな前近代性の淵源もまた彼を選んでいる選挙民の中にその淵源があるのだろう。実際の所新興ブルジョワジーの台頭が王の課税権の制限につながった(と歴史で習った)が、十和には、地域商社はあっても独立自営業者の層が極めて薄いのであろう。そのような地域性がそのような政治思想を持つ議員を生み出しているのだ。結局淵源は常に選ぶ側にあるということである。ここでその淵源、地域性の意識を探る目的で、賛成派の言い分を再現してみよう。全員が全く同じことを判で押したように繰り返したことの異様さに着目したい。事前の根回しが疑われる。

※ 行政は粛々と正当な手続きを踏んで来た。

※ 休止すれば、町に損害が及ぶ。

※ 資材高騰はやむを得ない事情である。事業休止の理由にならない。

※ 議会には議決によって町のやり方を認めて来たことの責任がある。

彼らはなべて行政の番人であることで、自己利益を引き出して来たのだろう。議員報酬引き上げの手口がそれそのものであった(町長に要望を出して町長から提案してもらった。)結局、主権者意識が最も希薄なのは、実の所彼等議員自身ではないか、と思わざるを得ないのである。主権者意式があれば、議会基本条例に基づいて、議員自らが議員報酬引き上げ議案を上程し、町民の信を問うべきであった。選挙への影響を回避したい一心だったのだろう。主権者意識が希薄な議会を持っていることは、町民にとっては不幸でしかない。何も生み出さず、議員間議論を通じた切磋琢磨もなく、その結果町民を巻き込んだ共感、相互理解にも至れず、議員バッジという飴玉をしゃぶらされながら、票のために、行政と結託した一部の強欲な人間の利益のために尻尾を振って奉仕する寒々しくもうら寂しい駄犬集団の如き議会の姿が今回はっきりと町民の一定層の鏡に映っていることだろう。淵源である町民にも様々な層があり、特に合併後にはそのモザイク分布が議会決議に影響してきた。が、とにもかくにも、より良い方向性を見出すための真の起点はそれを見る主権者一人一人の視点、見る目であることに変わりはない。今回提示したのも自分という一主権者の視点に尽きる。自己の視点を示すにもこれほどの他者への関心と文脈の提示がいるということである。その多岐に渡る文脈で構成された視点が説得力のある質疑となって議会で戦わされるような議会を我々は果たして見たことがあるだろうか。

西原真衣