呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

風力発電と蠢く町政(133)

       老害議員と子供の未来

「文化的施設サービス計画案」に対する3件のパブリックコメントを読んだ。3件24項目である。前回の記事で、早とちりがあった。十和在住の3名の女性の意見を感知したつもりだったが、推測が一部外れていたことに気が付いたので訂正したい。「文化的施設の図書館機能における蔵書の拡充と移動図書館は矛盾する、クラウドファンデイングの導入には反対」という意見を見つけたからである。これは、まず十和発ではないだう。なぜかと言えば、私の認知する十和は、四万十ドラマに代表されるクラウドファンディングとワークショップの聖地であるからである。コロナ禍対策としても、真っ先にクラウドファンディングで手を打って一定の売上げを確保し、「つながれた」ことへの感動をマスコミで述べたのが、四万十ドラマ社長の畦地氏だった位である、だから、上記パブコメは、四万十ドラマ界隈からは決して出てこないと思うのだ。私の居場所とは、文化の地層がかなり異なるのである。 

 さて、四万十町議会3月定例会でも、移動図書館用車両購入費用500万円の予算削除という動議が出され、5対9で否決された。動議提出者は、教育民生常任委員長の古谷幹夫議員である。「ニーズの把握が乏しい、時期尚早である」というのが主な理由だったらしいが、この事業は、平成28年度から準備されてきた事業である。8年目の今頃「ニーズ」を持ち出すこと自体に私は強い違和感を持った。そもそも新しい施設建設は、町民の要望から始まっていないし、又建設への本格的な住民意向調査を実施したこともない。従って、議会内部における「なぜ今文化的施設なのか」が討議された経緯自体がないことを棚に上げ、それも移動図書館限定で、「ニーズがない」などと予算削除に走るのは、議会本体の姿勢として、全く説得力に欠けるのである。行政から提供された情報のみに基づいて対処し続けた挙句、最終局面で、パフォーマンス的に議会の議決権をちらつかせるというお決まりの行動パターンが踏襲されているとしか見えないのである。いい年齢をして自分達の「勉強不足」「討議不足」を棚に上げ、相手方の「説明不足」を責め立てるのは、実に見苦しいことこの上ない。私の視点からの彼らの勉強不足の内訳目録は、以下である。

1.基本構想、基本計画検討委員会の議事録を読んでいない。

2.図書館協議会議事録を読んでいない。

3、平成28年時点からの議か教育民生常任委員会議事録を読んでいない。

4.教育委員会定例会議事を読んでいない。

5.平成28年時点図書館美術館に設置された意見箱に投函された意見の一覧表も読んでいない。

6.文化的施設の必要性の出所として説明資料に登場する、「町民懇談会資料」「各審議会代表との協義の概要」「教育委員会と準備室との勉強会の記録(令和3年11月25日開催)」を読んでいない。

7、動議の不採択に回った中屋康議員は、平成31年度から2年間教育民生常任委員会委員で、動議の不採択側に回った村井真菜議員は、同副委員長でありながら令和元年11月12日に委員会活動として実施した教育委員会との意見交換会を「非公開」で実施している(議事録は開示されない、非公開理由も知る由もない)という体たらくである。

概括すれば、相手の「説明不足」の指摘前に圧倒的に立ち塞がっているのが議会側の怠慢と無能である。上記資料は全て私の手元にある。つまり議会の調査権など発動しなくても誰でも入手できるということである。だからして、かって私が議会で糾弾された「議員個人には付与されていない調査権の発動」というのも完璧な虚偽である。上記資料を議員でない今の私が、議員個人には付与されていない調査権を町民として発動して入手したなどという事はあり得ないからである。「議員個人には付与されていない調査権の発動」などというものが本来存在しないことの証拠であり、結局彼らは単に公文書の在りかに疎く、従って情報公開条例を使えず、議事録の意味することを理解せず、選良どころか一般町民(私の事ではない)より遥かに低レベルに留まっているという事でしかない。この低レベル化を齎した元凶は何か、ずばり選挙制度である。供託金の異様な高さ、選挙の手法的な愚劣さ(個別訪問と選挙カーに頼る)、小選挙区制度が相互作用し、選挙に出る人の質が限りなく落ちてしまった挙句、若者にとって政治家がエリートどころか、ゴロツキに近く見えるのも無理はない。がされど議会であり、権限と決定権を持っている以上は、彼らを絶えず監視する必要があるのである。

 動議に戻れば、アンケートが拾えていない、移動図書館のニーズとやらの部分を、教育委民生員会は独自調査すべきであった。ニーズを拾えるアンケ―トの設問内容を教育民生委員会本体が設計し直すべきであった。「ニーズの把握が乏しい、時期尚早である」という理由で移動図書館購入予算の削除の動議を出す前に、「ニーズの把握のどこが足りないか」と質疑を通じて具体的に明らかにし、行政側のニーズの把握を促進する方向付けをするべきではなかったのか。平成28年度以降の教育民生委員会委員長は以下である

平成27年~29年 委員長:下元真之 副委員長:林健三 委員:下元昇 緒方正綱 水間淳一

平成29年~令和1年委員長:中屋康 副委員長:村井真菜 委員:岩井優ノ介、酒井祥成 緒方正綱

令和1年年~3年委員長:古谷幹夫 副委員長:武田秀義理 委員:水間淳一、堀本伸一、田辺哲夫

彼らは今まで随分県外図書館の視察にも公費で赴いているはずである。結局視察等全く無駄であった。行政側にニーズの把握ができていないと言うならば、その手法のどこにどのような不備があるかを具体的に指摘し、執行部に対して、代替案の提示位したらどうだろう。その為に議会には調査権が付与されている野じゃないのか。公聴会も開催できる。専門家を参考人として招致もできる。議員報酬引き上げに賛成し、「議会で決まったことに本会議で反対したことは極めて不愉快、責任を取ってもらいたい。」と議決後の全員協議会で発言した古谷幹夫議員、議員報酬引き上げ分は委員会活動の活発化で町民に貢献するという了解じゃなかったのか。未だに委員会議事録作成に10ケ月を要し閲覧に開示請求が必要という体制を放置している議員の面々は、口が裂けても「委員会活動やっています。」とは言えないはずである。昨今、申し訳のように「委員会活動報告」とやらが本会議で為されるようになった。「今後とも一生懸命やりますので町民の皆様宜しくお願いします。」などと林健三産業建設常任委員長が報告を結んでいたが、町民が期待するのは、所信表明や報告ではなく、委員会活動によって中身が充溢された本会議質疑であるという事さえ理解できていない様子であり、やはり老害議会」であることが今回の動議で一層露わになったのだ。古谷幹夫議員は、老害議会の老害振りの立役者となった。この趨勢に乗じて「時期尚早」と動議の賛成討討に立った、村井真菜議員の言動にも注視が必要である。村井真菜議員は、議会最年少にして、子育て中の十和在住女性議員である。「文化的施設建設中止及び見直しを求める陳情書」、見直し提案として十和分館の建設が明記されていたのを知らない訳もないだろうが、村井真菜議員の今回の発言から推察されるのは、「問題の本質を理解していない」という事である。議会HPの職業欄に「音楽家と記載している位あって、議会でも専ら即興演奏的に発言しているのではないか。村井議員発言は「感性」に根差しており全く練られていないが故に迷走する。結局この人物もまた、議会最年少ながら、他の老害議員と同様、「図書館」と無縁のパーソナリテイの持ち主である事が見て取れる。ここで「図書館」で表現したいのは、彼らが「読むべきものが分からず、読むべきものを読まない。」という事である。彼らの酷い勉強不足は、上に列挙したように「議事録を読まない」ことから来ていると言っても過言ではない。「読む」という行為の意味することは、「発話者の思考の骨格の生成過程にコミットすることを通じて、同時に、自己の思考の生成過程となすことである。」と私は捉えている。そして議員の役割は、「他者(執行権及び地域住民の双方)の話法を解読することを通じて、自己の「議(議員の議)」を構築して「執行権」という権力を質し、監視すること」である。つまり仕事の本質が、「読む」ことに深く関わっているのだ。「読む」ことは本質的に極めて能動的で意志的な行為である。そして「読む」ことを支える社会インフラが「図書館」である。「読む」ことの重要性を理解しない議員の面々は当然のことながら「議事録」の重要性も公共性も理解しない。議事録を取ることの目的と意味は、「議事録が政治的判断、言い換えれば歴史の生成そのものの記録であるが故に、歴史を共有する社会構成員全員の共有財産であるから」である。「議決権」に執着の色を隠しきれないように見える古谷幹夫議員は、歴代最高票(1003票)で初当選した議員ではある、が、票からみる古谷議員への支持は、どうも議事録の重要性の認識とは無関係であるようである。私が執念深く議事録の速やかな作成と公表を議会に対して促し続けてきた経緯の中で、やっと委員会報告書が委員会議事録に替えて議会HPに掲載されるようになった。が、継続的に見てもらえれば分かるが、A41, 2枚の委員会報告書を委員会開催後2週間以内に提出できた試しなどないのである。通常2、3ケ月はかかる。この不備を古谷幹夫委員長に直に指摘し、改善を要求したことがあるが、その時、古谷幹夫議員からは、想定外の意外な反応が返ってきた。「自分が所属していない他の常任委員会の審議内容を知る目的で古谷議員自身が議会HPの委員会報書に目を通す必要が生じないか。その時2、3ケ月遅れであれば自分自身の仕事に支障がないか(議会質疑の準備段階で、特定の町の事務事業の実態を知る必要が生じた際、自分が属さない常任委員会の審議内容を知る必要性は当然生じてくる)。」と私が聞いた際の古谷幹夫議員の応答のである。

古谷幹夫委員長:自分は議会HPをみる必要がない。委員長に見せてもらう。

注釈:見せてもらうにしても、報告書が、議会事務局に提出されていなくては見せてもらう事はできないはずであるし、自分が議員であるから自分には議会HPは無用であるという発想に驚いた。古谷幹夫議員には「議事録とは公共物」とい言う認識が完璧に欠落している。この脳内環境を私は「老害」と表現しているのである。異常たんぱく質の蓄積が引き起こす脳神経細胞の変性が認知症を発症さすことを参考に、私は議事録への認識で議員脳の老化度を計測している。「議事録の公共性と共有性」の認識は、老害判断のメルクマークとなるし、同時に「権力の私物化」の境界線ともなる。私の考えでは、「公共性」とは「共有性・公知性によって実装されるものである。そこで、昨今の自民党憲法改正論の如く、「公共の福祉のために一定の制限を受ける基本的人権という文脈における「公共」を権力の側の一方的な時々の判断に任せてはならないという結論が出てくる。その認識だけが、権力の私物化の究極の姿である専制・独裁体制」への唯一の防波堤となる。議事録を読まず、従って質疑力の極めて乏しい四万十町議会は、その防波堤の構築ができないということである。議員報酬引き上げ後に委員会の開催回数を年8回から20回に増やした、がその中身は、極めてお粗末である。執行部を呼びつけて、「分からないこと及び知らないことを聞く」が大半であり、後は議事に事欠いて「議会基本条例や会議規則の輪読」「無意味なアンケートの実施」等愚にもつかないことをやっている。彼らを見ていると「学習習慣が身についてない学童」めいて見えること屡である。「社会教育を目論んだ集落座談会風勉強会」と言えば最も実態に近い。それで報酬を受け取っているのである。この話にならない酷い実態こそケーブル中継すべきである。文化的施設絡みでも、議会質疑より、生涯学習課所管の審議会である図書館協議会」「社会教育委員会」「文化座保護審議会」等の審議内容の方が遥かにましである。議事録を読み比べて見れば分かる。「子どもの未来」に投資するのであれば、15億円の建造物は無用である。図書館の行政文書コーナーには、まずは議事録を網羅的に収集すべきである。更に学校との連携面では、学校の「総合的な探求の時間」に教材として四万十町が保管する議事録を提供すればいいのではないか。その探求を通じて時間をかけて、未来の議会議員を養成していくのである。これこそが、最良の「ふるさと教育」「人材育成」である。現図書館員が、行政文書を「役場の人が持ってきてくれたもの」としか記述できないという事は、図書館員が今までの全生涯で受けて来た教育の結果であり、同時にその受けた教育の水準に密接に係わる統治機構における図書館員が置かれた組織的上の地位の結果でもある。ここで明言すべきは、「教育」「地位」とは、「学歴」「査定」のファクターではなく、むしろ「性別」「縁故」のファクターであるということである。「性別」「縁故」の帰結として、図書館員である彼らが採用以来培ってきた職務上の認識と理解を指しているのだ。図書館員は全員女性である。だからこれは四万十町正規女性職員にも同様に言えることである。私は体験的に、四万十町正規女性職員の四万十町公文書」への認識が、非正規女性職員である図書館員の「役場の人が持ってきてくれたもの」からさほど距離がないということを知っている。「子どもの未来」はこの現実の到達点の上に構築するしかないのではないか。だからこそ、建造物はいらない。まずは、パブリックコメント書いてみよう」ではなく、「議事録を読んでみよう」から始めるべきである。

西原真衣