呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

風力発電と蠢く町政(89)

            予算書を読む

 知人から転送されたface book投稿者は、これまた知人の酒井紀子氏であった。「予算ってなにもの、ミクロからマクロまでの四万十町企画課政策監大元学氏による予算書講座第1弾開催予定」というような内容であった。会場は地域振興局2回で午後1時から5時、更に遡って昨年9月にゲストハウスこいのぼりハウスで座談会で四万十町企画課政策監大元学氏を囲んでの座談会の場で、「町予算について勉強したい」と集まったオッカア達が熱烈にリクエストした」とあった。この投稿には多くの賛同、賞賛的なコメントが寄せられ、その中でオヤット思ったのが、大元政策監の応答、「酒井さんあんまりハードル上げないでください、ご期待に添えるかどうか不安でしかありませんが、皆さんの期待と熱意にお応えできるよう、行政用語もできるだけ例え話を交えながら解りやすく話をさせていただけたと思っておりますので。よろしくお願いします!」と、今町から複合文化施設の基本設計と実施設計を請け負っている建築家三浦丈典氏の応答自治体予算と家計簿は基本同じです!かーちゃん絶対親しみやすいはず。」であった。酒井紀子氏と町企画課まちづくり推進室政策監大元学氏、複合文化施設の設計を受託している建築家三浦丈典氏はおそらく、face book上の友達なのであり、互いの投稿が互いのfaac cebookに表示され、タイムリーに応答し合うという関係性が構築されているのだろう因みにこのface book投稿を私に転送してくれた知人は、建築家三浦丈典氏にface bookで友達申請したら拒否されたらしい「一体なぜだろう。」私は公開型プロポーザルを見に行ってこの三浦氏のプレゼンンテーションを聞いている。四万十町の自主財源比率の円グラフをプロジェクターに映し出して、「全国どこの自治体も財政事情は大変厳しいので、なぜそのような財政事情下で、新しい文化施設などいるのかという住民の反感が出て来がちですが、合併後の四万十町窪川、大正、十和のこの町の未来を担う子供達に、窪川、大正、十和の各地区のそれぞれ異なる文化遺産や歴史を伝えてそれ等が共有される環境を醸成することは、この町の未来を作ることに繋がります」というようなプレゼン内容だったと記憶している。三浦氏が四万十町の自主財源比率を知っている理由は、町HPに掲載されている「四万十町の財政状況」欄を旦丹念に読み込んで見てプレゼン資料を作成したからである。一方予讃出前講座の主催者である酒井紀子氏は複合文化施設検討委員会の公募委員を4年間勤めている。更にここでの「オッカア達」には、現職四万十町教育員の佐々倉愛氏と現職議会議員であり、過去2年間教育民生常任委員会副委員長であった村井真菜氏も含まれていた。教育委員には、教育委員会関連予算が議会に上程される前にその予算案について予算の提出者である町長に意見を述べることができる権限が法的に付与されているし、村井真菜氏に至っては予算本体を過去2年間議決し成立させてきた立場である。「オッカアたちの熱意と意欲に応えて、難しい行政用語は避けて、例え話で分かりやすく予算を解説します」と応答している大元政策監と、「予算書と家計簿は基本的に同じ」と言ってはばからない建築家三浦丈典氏のジェンダー意識はどうなっているのだろう、とまず私は思ってしまったのである。第一予算と家計は全く違う。共通点は、入と出があること位である。一番の違いは、家計は収入源(歳入)と支出先(歳出)を網羅的に把握できるが、予算はそれができないのである。収入の範囲で暮らすという健全な家計感覚があれば、入の持続可能性の見込に基づいて出の優先順位と額をおよそ判断できる。ところが予算は「義務的経費」と「投資的経費」に一方的に二分されている上に、法律によって財源となる歳入への算入が決まっている。そこで「義務的経費」は仕方なく棚に上げて、「投資的経費」支出の是非を判断しようにも、投資的経費が発生する施策の事業毎の財源構成が不明瞭なのである。つまりその財源がどこから得られたかかが分からない。これでは、この財源をここに回して、という事業予算の変更に必然的に伴う財源組み換えが自前でできないのである。私は過去にこれを一々調べようと試みたので知っているのだ。四万十町財政班の誰にもこの答えはなかった。そのような視点での把握の必要性が認識されていないが故にその答えがなかったのである。実はそのような事態が発生している元凶は、地方交付税制度にある。地方交付税制度の制度創設の目的は、全国一律の行政サービスの質の保障とされている。地方交付税総額は総務省の予算要求事項であり、年毎の総額は政治的折衝の結果である。総務省が年毎に作成している地方財政計画における算定を通じて最終的全国の自治体に交付される地方交付税の額が決定される。その算定式は額面上、自治体単位では基準財政需要額-基準財政収入額」である。基準財政収入額は、基本的に町が徴取するので分かりやすく、故に町が過去の実績に基づいて試算可能である。

基財政収入額:町固定資産税、町住民税、国保税、介護保険料、上下水道料、各手数料、負担金、軽自動車税、たばこ税、入湯税

ところが基準財政需要額の算定には、先述した起債に係る年毎の交付税措置(地方の借金の国による補填部分)や事業単位の交付税措置及び地方財政計画に基づいて全体の調整の中で毎年政令で決まる算定上の補正係数が関わって来るので、町独自に算定することは不可能なのである。地方交付税は、表向きは町の裁量で使える自主財源とされているが、その内訳には、先述した諸々の交付税措置」が含まれておりこの部分の使途は予め制約されているという複雑さなのである。例えば過去の起債に対する交付税措これは、円グラフ中では、歳入項目としては一括地方交付税交付金であり、歳出項目としては公債費として表記されるので、町民にとっての出力である事業単位の不要不急度や優先度、経年的な事業検証時の費用対効果等の視点からは、「見える可」されにくいこと夥しく、この点が家計とは全く異なるのである。このような複雑な財政の仕組みを、建築家の三浦氏ならいざ知らず、長年財政班長であった大元政策監が知らないはずはない。それでいて「難しい行政用語を避けて例え話で行く」というのは、それこそ基本的に戯言である。町HPにも財政用語解説が21pに渡って掲載されている。「オッカア達」は、これほどSNSを使いこなしているのである。酒井氏とは、検討委員会委員であった時に大正振興局で落ち合って、複合文施設への住民サイドの取り組み状況について伺ったことがある。この際にも持参していたノートパソコンに、こちらの話をすごい速さで入力できるようなパソコン使いなのである。政策監に出前講座を依頼する前に、建築家三浦氏の向こうを張って、町HPに掲載されている「四万十町の財政状況」を読み込もうという意欲と熱意は無いのだろうか。ここが私としては実に解せないのだ。本より教育委員の佐々倉愛氏や現職議員の村井真菜氏に及んでは、である。実際自分で長年予算書を読んで来た挙句、中央集権の道具として作為的に分かりにくく構造化された予算書の読解力こそが質問力、即ち自治力の礎である。」という持論を持つに至った私は、長年あの手この手で、教育委員会に対して予算書の勉強会開催を働きかけてきた。20年ほど前に、町立図書館に「予算書を読む会」の主宰を提唱したことがある。その時の館長熊谷安郎氏の応答は、「わしは教育委員会に言われたことをやっているだけだ。」というものであった。だったら館長は特に熊谷氏でなくてもいいんでは、と思ったことを覚えている。館長職は、抽選で良かったのである。教育委員会の言う通りのことをする人であれば誰でもいい」ということになるからである。時の生涯学習宮地正人氏は、陰鬱な表情を浮かべてこの提案からのらりくらりと逃げ切った。合併前の窪川町時代のことである。当時の時代の風潮が感じ取れる逸話がある。かって窪川町役場の助役であった武吉茂氏などは「あの女は何を考えて,何をするか分からない。役場から予算書を手に入れて役場の金を巻き上げようと企んでいる」などど私が予算書を読んでいることについて、知人に触れ回っていたらしい。この時の武吉茂発言と昨今の森喜朗「女性が多いと会議が長くなる一直線で繋がっている。女性全般に対する疎ましさと、不信感が心中渦巻いており、自分の持っている既得権が侵されそうな事態が発生すれば、その内なるアラームが一気に発動されるのだ。自己防御反応である。私は当時の教育長辻不可死氏を教育長室に訪ねて、早速この話をした。

「 吉茂助役は、役場の金は俺の金だと思っていたんでしょう。だから私が不法侵入者に見えたのでしょう。予算書を見ることに対して、自分と同じ動機を持ってると推測したんでしょう。人は常に自分の内なる動機を他者に投影するものですから。」

辻教育長は私の言い分をじっと無言で聞いていた。辻氏は役場の金は俺の金だなどと一遍たりとて思っていなかった、と私は確信する。総務課長時代の公共事業の入札に係る分厚い手帳(記録簿)の一端を少しだけ私に見せてくれたことがあるのだ。その手帳を見ただけで私は、この人が実に真摯な気持ちで仕事に励んできた公務員であることを一瞬にして深く理解したのだあれから随分と時がたった。けれども、やはり今に至ってもなお、予算書を読むという力の養成は、本当の意味での自治を成立させ、自治体を民主的に運営させるためには、絶対に必要不可欠であると私は思うのだ。予算が俺の金(政治的な私物化)となることを抑止するためには、予算の構造に通じ、予算がどこでどのように私物化される可能性があるかの、実際的な予算編成と議決と執行の地政学に通じている必要があるのである。スエーデンでは政党マニフェストが学校の社会の授業の副読本となっているという話を聞いたことがある、小学生が政党員になれるのであり、国政選挙の時には、各政党の候補者が学校に来て演説をするらしい。このような仕組みがあって初めて小学生からの主権者教育がなされるのであり、日本のように、「教員が特定の政治的意見を、生徒に対して発信することは、教育の政治的中立性を侵害する」などと言っていては、畢竟生徒が自身の政治的意見を構築できなくなるのが落ちである。特定の政治的意見に接して始めて生徒は、その生徒自身の特定の政治的意見を構築する一歩を踏み出せるのである。そもそも政治的意見を発することとそれを押し付けることは,端から異なることである。異なる政党マニフェストは異なる政治的意見である。マニフェストを読み比べる力こそ、投票行動を自ら決定する力であり、この力は一夕一朝では身につかないということに、誰しも異論はないと思う。それは本来子供の時から養成されなくてはならない。だから学校教育における政治的意見の封殺を政治的中立性と言い換えることは、実に罪深い欺瞞である。予算書も又しかりである。「代表なくして課税なし」とはアメリカ独立戦争時の標語の一つらしいが、歴史的には、明治維新時の民選議員による国会設置のの建白書等にも引用され、議会制民主主義の基本理念となった。議会とは、討議によって、予算の配分の意思決定に預かる機関である。予算書を読む力も一夕一朝では身につかない以上は、長い教育課程が必要である。予算書の読み方も本来学校で教えるべきである。そうすれば酒井紀子氏の投稿にあるように、「オッカア」となって後に「予算ってなにもの」などと大騒ぎする必要もなくなるし、その方がいいに決まっている。酒井紀子氏は、複合文化施設検討員会公募委員として知った。検討委員会解散後も図書館町民懇談会のパネラーとして登場したり、米々フェスタにブース参加し複合文化施設への意見や要望を募ったり、2020/11に開催されたらしい図書館総合展(企画運営カルチャージャパン)までにオンライン出演しているという八面六臂の活躍振りを見聞きしている。さらに十和で子育てサークル「さんまの会」を主宰しているとも聞く。「さんま」とは子育てに必要な時間、空間、仲間の三つの間を指しているらしい、その辺は、その通りだろう。でもそれが何か、特段目新しいことだろうか。更にその会合に、町政策監や町コンサルタントが出前応答しているとなると、何だかきな臭くなるのは避けられない。もし彼女達が意識的に、「若い、子育てに懸命で意欲的な母親」をブランド化しているとすれば、その本当の目的はどこにあるのだろう。と言うのも、酒井法子氏の発信内容は、「目からうろこ、食いつき、面白い」と感嘆詞連発の情動型であるが、肝心な核心部分、「予算書の一体どこが目からうろこだったのか」の記述が全くないので、文章としては完璧な片手落ちになっている。私としては今後展開したい予算書を読む会のためのレファランス情報が、発信内容に一切見つからないのである。ただ、こんなことやりました。自分達ここでこんなことやってます、というアピールに終始している。外から来て十和で子育てという共通の条件からしての「十和に図書館」をという戦略的アピールでもどうもなさそうである。図書館の三文字もどこにも見当たらない。されど、酒井氏も佐々倉氏も面識がある。一体どこが目からうろこだったのかをどうしても聞きたくなった私は、佐々倉氏にアクセスを試みた。ゲストハウスこいのぼりハウスで検索すれば一発で佐々倉氏の携帯連絡先が見つかった。私は、観光協会でこいのぼりハウスの経営者が町教育委員でもある佐々倉愛氏であることをつかんでいたのである。いきなり私から電話があって佐々倉氏は、少々面食らっているようだった。

西原:どこが目からからうろこだったか教えてもらえませんか。

佐々倉氏:それ何に活用するんですか

西原:今後の予算の勉強会の参考にしたいので。

佐々倉氏:西原さんが予算の勉強会主催するんですか。

西原:そこまでは考えていませんが、ただ長年温めてきた構想なんで、face book 見たんで取りあえず、感想を聞きたいと思って。

佐々倉氏:「目からうろ」こは、酒井さんが書いたことなので、酒井さんに聞いて下さい。

西原:それは確かにそうですね、でも佐々倉さんは教育委員として教育委員会予算書は議会提出前に予算案を審議して意見を述べているはずなので、予算に対して全くの素人じゃないし。

佐々倉氏:そうですね。でも私は教育委員としてではなく個人として参加すると事前に皆なに言ってから今回参してますから。それに語弊があったらいけませんから。

西原:今現職議議員でもない、教育委員でもない、何の権限もない一町民の私に対して「それ何に活用するんですか」とあなたの方から先に聞かれたんですけど、自分は教育委員としてではなく個人として、ですか。なんだかアンバランスな発言ですね。

佐々倉氏:・・・・・・・・・・取り込んでいるので。

西原:そうですか。けれども今回教育委員の佐々倉さんに関して、私にとっての貴重な情報を得ることはできました。

貴重な情報とは言うまでもなく、佐々倉氏の「教育委員としてではなく、個人として参加」という表現を指している。これはオリンピック・パラリンピック男女共同参画大臣丸川珠代氏の「夫婦別は家族の根幹を揺るがすという理由で、個人的には反対するが、大臣としては、国際社会にあたえる印象に配慮し、議論の深化を目的としている」という詭弁との類似性を感知したことから来ている。そもそも個人としての政治的意見を政治家としての意見から切り離すことは不可能である。にもかかわらず、政治家としての本音を男女共同参画の視点からは、国際社会からの感想と議論の深化で煙幕を張って誤魔化そうとしているのである。これは完全に二兎を追うものの言明である。政治家としての今の地位が、女性であるから得られたものであることを深く了知している丸川大臣は同時に「夫婦別姓が家族の根幹を揺るがす」という時代錯誤的な価値観で結束している自民党幹部から今の地位を得たことも深く了知しているのである。彼女の苦しい二枚舌はここから来ている。言い換えれば、丸川珠代という東京大学経済学部卒の女性政治家の日本の政界での立ち位置、ジェンダーギャップがよく分かる発言なのである。そして同様に、十和という四万十町の辺境の地から「保護者枠」で選任された佐々倉愛氏という愛媛大学法文学部卒の現職教育委員が、地元の子育てサークルで予算の勉強会に参加する際に、「教育委員ではなく個人として参加すると事前に参加者に言って参加した」「御幣が生じる可能性があるので回答は避ける」は、やはり私には同質な響きをもって聞こえるのだ。佐々倉愛氏に取っての二兎とは何か。私は佐々倉氏の教委員選任時に議員であった。教育委員選任議案説明時に中尾町長に対して私が質疑したことは、この佐々倉愛氏が「一般社団法人田舎パイプ」の代表者佐々倉怜雄氏の妻ではないかということと、今「田舎パイプ」に町から補助金が出ていないか、今後町が補助金を出すときには、佐々倉氏の立ち位置をどう判断するかの3点であった。過去に「田舎パイプ」は、町の移住定住関連事業の委託先であったし、平成29年の十和道の駅の指定管理者選任議案時に町が経営状況が分かる資料として応募者の四万十ドラマに提出を求めたため私が町から入手できた四万十ドラマ財務書類に記載されていた販売費一般管理費支出先項目委託料500万円の委託先も「田舎パイプ」であった、一言で言えば「田舎パイプ」とは、四万十ドラマの関連企業であり、町、県、国から夥しい件数の補助事業を引っ張っていた四万十ドラマの関連企業の代表者の妻である佐々倉愛氏が教育委員になることについては、警戒心がなかったわけではないのだ。今菅首相周辺との癒着が取り沙汰されている総務省が、移住定住や地域おこし協力隊、ふるさと納税事業の主務官庁であり、四万十ドラマ社長畦地履正氏は総務省に、地域情報化推進委員として総務省に登録されており、又複合文化施設コンサルタント岡本真氏も同じ地域情報化推進委員として総務省に登録されている。総務省とは旧自治相、その前は警察組織と地方行政全般、土木、公衆衛生、国家神道を所管していた旧内務省である。戦後GHQが日本再建に当たって,まずこの内務省を解体したことは周知のことである。そして日本国憲法地方自治法が生まれた。昭和21年の事である。やはり私は、大元政策監による予算書の出前講座のどこが目からうろこだったのか、酒井紀子氏(地域女性リーダーと見なされている)にも佐々倉愛氏(現教育委員)にも刈谷明子氏(現図書館協議会委員)にも村井真菜氏(現職議会議員)にも自分の言葉で語って欲しいと思う。未だに埋まらないどころか悪化の一途を辿っているジェンダーギャップの真因がその辺りに潜んでいそうな気がするからである。その時私は、彼女達に対して、議会の現場で自分に起きた問責決議、辞職勧告、議場での陳謝文の朗読、3日間の出席停止という議会におけるジェンダーギャップについて、自分の言葉で是非とも応答したい。こればかりはSNSでは到底無理だろうけれども。

西原真衣