呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

風力発電と蠢く町政(37)

        議長新年の決意

アグリから一時離れて、是非とも早急に書いておきたい案件が発生した。それは、四万十町通信新年号の四万十町議長挨拶である。以下抜粋する。

「執行部が提案する予算が議案など、四万十町の方向性について十分に議論を重ね、チェック機関としての機能を果たし、町民の皆様の福祉の向上と四万十町の発展について全力で取り組んでまいります。今四万十町の大きな政策課題として、大型風力発電と新しい図書館を含む文化的施設の建設問題があります。いずれも四万十町民にとりまして生活に直結する重大な課題であり、将来に禍根を残さない判断が重要であると考えます。議会としてもより多くの情報を町民の皆様と共有し、慎重に調査、検討を行いたいと思います。」

これを読んで、私は唖然とした。まず、大型風力発電事業は、環境影響評価が開始されて2年近く経過した。その間住民と情報共有を試みたことが、あったのだろうか。今までしてなくて、今からするなどと言うことは端から信用できないではないか。

 (仮称)大藤風力発電事業計画については、環境影響計画段階配慮書への住民意見及び環境影響方法書への住民意見を彼らは読んでいない。これで住民と情報共有とは、さすがにおこがましくないか。これが資料として委員会や全員協議会の場に持ち込まれたことはない。環境影響方法書には4件の四万十町民が提出した意見が述べられており、それに対するオリックス社の見解も示されている。おまけに四万十町文化的景観検討委員会の議事録、四万十町景観協議会の議事録も議会内で共有されていない。これら審議会委員の大半は四万十町民である(一部外部有識者がいる)。おまけに、風力発電関連の請願2件が令和元年度12月定例会に提出されたが、請願提代表者を趣旨説明のために委員会に招致していなかった。招致したのは、請願紹介議員だけである。これで町民との情報共有とは、さすがに嘘偽りではないだろうか。この面ではは、同じく町民と共有すると明言している文化的施設も同様である。まず町立図書館、本館、分館に設置された意見箱に投函された意見を取りまとめたものが、複合文化的施設検討委員会で口頭説明された(本来は資料を配布するべきである)。が、議会はこれを共有していない。この検討委員会は、会合を重ね議事録も公開され、基本構想も基本計画も作成済みであるが、議会教育民生員会は、この資料を共有していない。検討委員会との意見交換会が4月時点の教育民生委員会の席で、村井真菜副委員長から提議されていたが、実現したという話は聞いたことがない。視察についても検討委員会と議会は別々にいたずらに視察を重ねているだけである。情報の共有はない。議会事務局と生涯学習課に問いあわせた所、

四万十議会教育民生委員会視察先は以下であった

H27年度:佐賀県武雄市立図書館(ツタヤ指定管理)

H28年度:富山きらり図書館、岩手県紫波町立図書館(複合商業文化施設オガール内設置)

H29年度:瀬戸内市民図書館、香川県綾川町立図書館

H30年度:熊本県菊陽町立図書館、基山町立図書館

R1年度:岡山県奈美町立図書館、鳥取県智頭町立図書館プロジェクト、瀬戸内市民図書館

教育委員会生涯学習課視察先は以下であった。

図書館職員視察先

令和元年度:兵庫県洲本市立図書館、兵庫伊丹市立図書館、兵庫県明石市立図書館

複合文化施設検討委員会と図書館職員視察先

H29年度:瀬戸内市民図書館

令和元年度:愛媛県西予市立図書館交流館、愛媛県内子もみわまなび庵

そして現在町民が視察内容を知れる資料で公表されているものは皆無である。これで、今更町民と情報共有などとは口が裂けても言えないはずである。実態が知られていないが故の高の括り(どうせ町民は何も知らない)という名が根の思考体質、つまり油断が生んだ虚言である。実態が知られていないのではなく、知らそうとしてこなかっただけなのであるが。おまけに現職議員を地元図書館で見たこともないのである。地元町立図書館は実に惨憺たる実情を持っている。館長は、生涯学習課課課長林氏兼任、副館長は森山生涯学習課副課長で後は全員、非正規職員である。図書館司書の有資格者は1名、選書基準も公表されていない。蔵書単位の貸し出し利用率(回転率)のデータも作成していない。「公文書コーナー」の資料についても何ら説明できない(内容を把握していない)。ただ、カウンターで、愛想よく、親切で、感じのいい」業務に勤しんでいるだけである。だから来館者に、毎回「今日は。」と「有難うございました。」の挨拶は欠かさない。それもそのはずである。図書館行政の究極のトップである川上哲夫教育長は、過去に議会本会議で、私に「西原さんは挨拶をしない。」と指摘せずにはいられないほどの熱心な挨拶運動の推奨者であるし、私が「図書館で教育長を見かけない。一般的に図書館は本を読む習慣がなければ利用しない。大の大人に対して読書習慣を持つべきだなどとおこがましいことを言う気はさらさらないが、図書館行政の最高意志決定者である教育長が図書館利用者でない、つまり個人的に本を読む習慣を持っていない人物であることは、図書館行政の質の向上を期待しにくいということにならないだろうか。」と質疑した際には、大慌てで踵を返すように川上教育長は、以下のように反論した。「私があたかも図書館に行っていないという印象を与える16番議員の発言がありましたが、私は業務で図書館に行っています。」私の発言を趣旨を理解していないのである。私の発言全体から推察できる、「図書館で見かけない」は「個人的に利用する、図書館利用者でない」ことを意味しているということが、理解できていないのである。つまり川上氏は、この発言程度の長さの文章の「文脈」が理解できないのである。これこそが本を読む習慣がないことの原因であり、同時に帰結である。その結果が、義騎亜質疑に如実に表れている.例えば、「図書資料購入費用年間額はいくらか。」とか「一日平均入館者数は。」には回答できるが、「入館者数と資料の購入費用は、図書館運営上、どのように相関付けられているか。」となれば、その場では何も答えられないであろう。文脈と成れば、まず絶望的である。その質疑直後の昼食時に、図書館に赴き、川上教育長、谷脇健二教育委員長の貸し出しカード作成の有無を問いあわせてみたら、やっぱり作成してなかった。早速議場に戻って、両者に指摘した。(私は相当に底意地が悪いのである。この辺は男性にはなかなか真似のできにくい側面かもしれない)その 語、彼らが大慌てで貸出カードを作成したことは言うまでもない。

          だ・か・ら

私の友人夫妻が、図書館に「低周波音の健康被害を追って」(汐見文隆氏著)の購入をリクエストしたり、「四万十町ふるさとの自然を守る会」が「この町にいる、いらないみんなで考えよう巨大風車」というタイトルの風力発電勉強会開催のチラシを置いてくれと図書館側に依頼しても、決してすんなりとはいかないのである。必ずや一悶着起きるのである。「こんなものは置けません。」とか「このようなものは困ります」と、まず現場スタッフは全員が警戒心と困惑を露わにするばかりなのである。ついで、森山副館長、林図書館長と判断が順番に上に仰がれていく。まるで階段を上に一つ一つこわごわ上がっていくような感じで。実に物悲しい「遠流の地」の一幕ではないか。これは冗談であるが、偶然、図書館玄関先で、「歴民族資料館の土佐遠流の地展」そして、「越境する人々(移住、移民を考えるための50冊)-人文、社会科学からのアプローチ」のパンフレットを見つけたことから来る連想でもある。「越境する人々」を自宅でめくっていると、非常に興味深い一文に会った。以下抜粋する。

「縄張りの外に出ることが死を意味するような動物とは異なり、人間は縁やゆかりのない地でも何とか生きて来ました。むしろ他者を取りこむことで豊かな生を獲得してきましたきたともいえます。近年の日本では、ヘイトスピーチなどのあからさまな差別の他外国人実習生や難民認定申請者への処遇などが問題視されていますが、こうした他者への不寛容は人間文化の退化の徴候とすらいえるかもしれません。」

私は、この件に非常に触発された。私の中に「議会を縄張りと認識している議員達による、越境者である私に対する非常にあからさまな敵愾心」が、実にリアルに蘇ってきたのである。そして、この言葉に接することで、私は自分自身をより深く理解することができた。越境者が消えた後の議会の劣化と退化の有様(天敵が消えて安堵の中で劣化と退化が始まる)を目撃し、記述したいという欲望に、今の自分は突き動かされているのだという事を、如実に理解したのである。そしてそれは、多分幼少時から自分の自意識に纏わりついている、ここがどこであるかが、自分の中で決してアプリオリ(先験的)ではないという、私の内なる「流浪」の記憶から来る感覚なのである。気が付けば、図書館に出向いて、行政という縄張りを越境し、越境というその行為を通じてしか得られない、他者との遭遇によて事故を再生しようとしている自分gあいるのだと思う、自分にとって言葉は常にそのように作用してきた。「他者によって構築された言葉の森」の散策は、自分が何者であるかを探るための、かけがえのない旅路なのである。

この極めて個人的な図書館体験のない人間集団によって運営される図書館に、質の向上が果たして期待できるのか。みんなで考えてみよう。

で今回は締めくくりたい。

四万十町議会議員  西原真衣