呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

風力発電と蠢く町政(75)

     シンポジュームに行って来た

 シンポジュームに行って来た。全体として退屈した。それで途中で抜け出して日曜日の緑林公演を散策した。親子連れでにぎわっている。森のピアノを弾いている兄弟がいた。その傍らで母親らしき人がスマホにその姿を収めようとしている。ゴーカートも盛況であった。乳児近いような年齢の子供と同乗して、大人3人がかりでその姿をやはりスマホに収めようとしている。傍らでそれを観測している私には全く気が付かない。存在に気がつかない。まるで透明人間異なったみたいな気がした。緑林公演でで最も生き生きしていたのは、スケートボードで芝生の間の歩道を滑車していた3人の少年たちであった。彼らはスケボーに夢中で仲間と一緒にただスケボーに乗り、技を競い合うことが、面白くて仕方がないのである。もちろんスマホなどは持っていない。それに比べて、館内はどうだろう。参加しろと言われていやいや参加した町管理職の面々の憂鬱感が館内に霧のように垂れこめているのである。3名の議員の顔も見えた。中屋康教育民生委員会委員長、緒方正綱教育民生委員会委員、古谷幹夫総務常任員会委員長である。緒方正綱議員は眠りこけている。中屋康議員と古谷幹夫議員は一見神妙な顔をして座っているが、教育民生委員会副委員の村井真菜議員の顔は見当たらない。とにかく役場管理職が勢揃いしている。生涯学習課と賑わい創出課の職員及び、コンサルタント関係者以外は見当たらない。関係者のための既成事実化を自己目的とする儀式である。「ワクワク」という言葉が登壇者から頻発される割には全くワクワクできない陰鬱で退屈な儀式である。自分に取ってはコンサルの仕事場振り兼教育委員会の仕事振りの視察である。とは言え、講師の面々の話など、ネット上にいくらでも転がっているような内容である。なんか安易な商売をしているという印象である。

IT技術の進歩によって、情報の質が変わり、知の収集、加工、発信が民主化され(誰でもできる)、人の能力が拡張された。このITリテラシー実実装を提供できる未来の図書館は従来の図書館像を超えて、住民自治や官民共生のプラットホームになる~

というような話が、山口県YCAM館長、元長野県立図書館長、ソニーグローバルエデュケーデョンプログミング教育部門の担当者のそれぞれの視点で語られただけであり、そのような内容は日々ネットに溢れかえっているのである。関心のある人間はそこにたどり着くだろうし、関心のない人間に関心を喚起する必要性がそもそもあるのだろうか。それも税金を投下して、町民を啓発する必要性などあるのだろうか。全くあるとは思えない。湯水のように税金を使って、身の丈に合わない「新しい図書館を創る」と議会答弁してしまった中尾博憲町長のアリバイ工作を生涯学習課が青息吐息でやっているだけのことである。相変わらずの体たらくではないか。更に嫌なことに、コメンテータ役のコンサルタントの岡本真氏と李明喜氏に、(共にコンンサルアカデミックリソースガイド)に、壇上から上から目線丸出しで、住民自治だの町に何かやってもらおうではなく町民が主体性をもってなどど言わせているのである。住民自治が最も分かっていないのが生涯学習課に代表される四万十町職員なので、そっちに説教しろと思いはしたが、実際の所役場関係者が聴衆のほとんどなので、彼らは、公費を投下したコンサルタントに職員研修してもらっているのである。愚の骨頂ではないか。実に主権者である町民を愚弄するにもほどがある。

 コンサルタントの商売に町が協賛しているという構図

礼を言うのはコンサルなのに逆に町側がコンサルに礼を述べている。殖民地根丸出しである。ここが地元民として廉恥に堪えない。文化がどこにある。

このような、町民に対する実にはしたないふるまいは、返上させるべきではないか。四万十町教育委員会生涯学習課のふるまいは、実にみっともなく且つ恥知らずである。

2部のパネルデイスカッションとやらが始まるとやおら、中尾博憲町長と山脇和章教育長が登壇した。町長、教育長がパネルデイスカッションに参加するかと思いきや、彼らの知力の低さを見抜いているコンサルがそのようなことをするはずもなかった。一先ず登壇させて、ファシリテーターの隣に座らせ、一部の各講演に対する感想を促したことと、パネラー間のデイスカッション終了後に、「文化とは何か、一言で」に発言を促されただけであった。事前に設問を告げられ、答えは事前に準備されていたはずである。コンサルタントが町長、教育長の知力の査定を誤るはずが無い。彼らの役割は、執行部トップの無能力、無弁力を補い、それをあたかもそう(無能力のせい)ではないように糊塗して町民向けの出し物を用意することである。今回の複合文化施設構想で、それが露わになった。四万十議会の役割もこれに近い。執行部の出しものに協賛し、寄生し、彼らが恥をかかないように周到に出し物を事前調整、演出、運営している。そしてそれを「議会」と称しているのだ。

ファシリテーター:講演に対する感想を町長、教育長にお願いします。

中尾博憲町長:町の課題を整理してもらって有難うございます。市長選とはそういうレポートではなくて、町長として、新しい文化施設の建設を町の発展につなげたい思い。

注:市長選とは、YCAM(山口情報芸術メデイセンター)設立時徐住民反対運動を受けて反対派の市長が当選したという講演内容に基づく。

山脇和章教育長:メモに基づく各講演内容の概要を述べて、~について語ってもらいました。有難うございます。新しい文化施設は人材育成に貢献し、町の発展につながるものと思います~。

ファシリテーター:最後に「文化とは何か」について一言お願いします。

中尾博憲町長:文化とは生業であると私自身は思います。正解ではないかもしれませんが。~~。

 山脇和章教育長:文化とは、人材育成に繋がる「人、もの、こと」であると思います。~。

注:文化から生業という概念しか導けない中尾町長の姿と、同じく「人、もの、こと」という借り物のキャッチフレースしか思いつかない山脇教育長がいるということを四万十町民には注視してもらいたい。このようなにわか仕立ての「たわごと言い」の対価は町長月額767000円、教育長月額560000円である。税金の使途として是認できるか。

このシンポジュームの翌日に(株)ソニーグロ-バルデュケーションから来た講師である佐藤氏によって開催された「プログラミング教室」を覗いてみた。10人を超える子供たちとその保護者が参加し、そこそこ盛況であった。受付の生涯学習課の味元副課長がいたので、早速昨日の、町長、教育長の登壇の意図を聞いてみた。

味元副課長、何を思ったか、ここで咄嗟に出席者名簿を裏返す。

私:なぜ隠すんですか。

味元副課長:隠していません。個人の名前がありますから。

私:私もこれから記入するかもしれないものを咄嗟に裏返すなんて極めて意図的ではないでしょうか。認めたらどうですか。

味元副課長:認めません。

私:個人情報という認識であるならば個人情報収集の目的は何ですか。

味元副課長:事前の申し込みと実際の出席者の照合目的です。

注:本当にそうであれば、議会の傍聴向けのように投函させればいい。そうではないのである。出席者状況を確認する目的で、こちら側に名簿を把握されたくないのである。

私:本題に入ります。ちらしからは到底想定できなかった町長、教育長の登壇でしたが、パネルデイスカッション部門でありながら、パネラー的役割ではなかったように感じました。この登壇は、急遽決まった事ではないですか、又設問が事前に知らされていませんでしたか。そのように感じたのですが。

味元副課長:沈黙(認めたのも同然である。黙秘が得策だと判断している様子)。

私:町長、教育長の発言内容には聴衆にとって寄与するものは、全くありませんでした。

味元副課長:人によって受け取り方は異なりますから(個々の主観論に持ち込もうとする役人の定番言い回し) 

 私:そうですか、けれどもまだ登壇の意図について答えてもらっていませんが。

味元副課長:町民への発信です。

私:それこそ最も重要なことですよね。町民としては、発信はしっかり受け取りたいと思いますので、再度町長、教育長に確認の上、発信概要について取りまとめてもらえませんか。勿論テーマは、「講演内容への感想」と「講演への感想と文化について一言」ですよ。簡単なメモは取りましたが、録音もできなかったし、発信を町民としてしっかり受けとめたいからです。

味元副課長:わかりました。

先進事例の発表などやってもらっても仕方ない。その受け手のレベルに、その成果は規定されるのである。当然の事である。そもそも有難がる必要もない。スターパイロットの三浦氏も会場にいて、何と男子児童の真前で顔を撮影している。三浦氏は、写真の使用目的を明示した上で、参加した子供の顔写真という個人情報の使用目的を明示した上で、児童と保護者の許可を得て撮影しているのだろうか。味元副課長は、私には、出席者名簿を咄嗟に裏返して見えないようにしたのである。四万十町生涯学習課が、どちらを向いて仕事をしているかは明らかではないだろうか。そのような生涯学習課が、新複合文化施設で、STEM教育(Science(科学) 、Technology(技術)、Engineerining(工学)、Mathematics(数学))なんて提供できるんだろうか。できるとは思えない。自分たちの職務上の質問にも答えれないのに。誰も笑えない、できの悪い冗談みたいな話である。そう言えば参加していた、知人ママの一人が(ママというのはスターデータイロットの三浦氏の用語である、「プログラミング言語はちんぷんかんぷんだけど、プログラミング思考に関心があって。英語で思考出来たらいいんですけどね。」と私につぶやいた。「それ漠然と憧れているだけでは」というのが、私の受けた印象である。ママであろうとなかろうと一般的に女を駆動させるのは、「買い物」である。多分このママは新規な概念であるブランド「プログラミング言語」をショッピングし、自分共々自分の子供の精神面での栄養物にしようとしているのである。男性には理解しにくいかもしれないが、女という種族は本質的に買い物とういう行為によって自尊心を養い、対世間的な顔(フェイス)をつくり上げている(メイクアップ)しているのである。だから彼女らが何を身に着けどのような化粧を施し、どこに出没するかは買い物行為そのものであるので、それがそのまま彼女達の顔(フェイス)となる。東京から来たコンサルタントの男たちは、地元ママたちの顔(フェイス)を立て、自尊感情を喚起することに実に易々と成功している。客を実演販売の場に上手におびき入れている香具師に近い。実に商売上手である。ターゲット層の心理を熟知しているのである。ママを誘蛾灯に蝟集する蛾のように扱えるこのコンサル文化こそが、ママたちのこのような態様をもたらした我々が作り上げてきた戦後文化の目下の到着点でもあると言える。コンサルの三浦氏は先日、「ものの時代からストーリーの時代へ」と講演した。そしてその四万十町の住民のストーリーの基盤は、我々コンサルチームが用意する。」と言ってのけたのである。どうも我々四万十町民のストーリーの基盤が東京からやって来たコンサルチームによって提供されるらしい。その契約が町生涯学習課と秘かに交わされているのである。町の総合演出家気取りのこの三浦氏は、経歴を見れば、早稲田大学建築科出身と書いている。私の情報提供で、シンポジュームやプログラミング教室までも足を運んだ四万十町日野地の陶芸家武吉氏も偶然早稲田大学建築科出身である。大藤風力発電の模を作成できるはずである。武吉氏は、この三浦氏率いるスターパイイロットが選考された公開型プロポーザルも見に来ていたし、スターパイロットが選ばれることを確信的に予見していた人物である。確かに私の眼から見ても、岡本真による公開型プロポーザルの提案、スターパイロットが美馬旅館の木のホテルを手掛けた無垢設計とジョイントで応募したこと、木のホテルには四万十ヒノキがふんだんに使われていること。スターパイロットが四万十町森林組合集成材工場にヒアリングし、それをプレゼンしていたこと等、全て事前にお膳立てができているとしか思えなかったこれも偶々先日の新聞に、中々つながらない「いのちの電話」の代わりに「いのっちの電話」を開設した坂口恭平という人物の紹介記事が載った。この人は、ホームレスのためのダンボールで作った「0円住宅」や移動できる「モバイルハウス」という実験住宅で有名な、これまた早稲田大学建築科出身の建築家でもあるらしい。新聞記事には載らなかった坂口氏の経歴も武吉氏から教えてもらった。坂口氏は自身が双極性障害という障害を持ち、今でも時折希死念慮(死にたいと言う気持ち)が湧き起こると言う。そこで「いのっち」の電話では、「いのちの電話」で鉄則とされている「傾聴」ではない「徹底論破」という手法を取っているとのことである。スターパイロット率いる三浦丈典氏、地元陶芸家武吉廣和氏、「いのっちの電話」の開設者であり建築家でもある坂口恭平氏、この三者が偶々ここ四万十町という場で図書館を巡って遭遇したのである。坂内氏はここにはいない。私は、坂口氏の記事を興味深く読み、その名を記憶した。だから私の脳という仮想空間でこの三者が間違いなく遭遇したのである。坂口氏で面白いのはこの「独自性」である。坂口恭平という固有名詞を持つ一個人の内面の葛藤、懊悩から生成したこの独自な知見こそが、文化の起爆的な発信力その物ではないだろうか。この行為は、他者(媒介者であるメデイア)によって発信され、伝播され、共同体によって共有され、やがて見えなくなる(意識下から無意識下へと変容する)のではないか。一人の人間の行為が、見えない共同体に受信され、伝播され、共有知として無意識化され、やがてまた見えなくなる。ここには時間軸が存在する。その意味で我々は、歴史的存在でしか有りようがない。私は文化という得体のしれないもの、説明し難いものを漠然とそのように感じ取っている。その意味で文化とは、既に我々の中に埋め込まれた、人間の歴史の総体が、今、ここに表出した地層の文様のようなものとして目の前に現れる。その事象は文化としか表現できない、常に特有な事象である。坂口氏は「傾聴」では自分は救われなかった。だから「論破」を試しているのである。この探求心と実証精神である。生涯学習課に完璧に欠けているのは、この部分である。彼らには文化を生成する最初の駆動力である好奇心と探求心、正しく発信力が致命的に欠けているのである。実は、むしろそれを欠くことで、所属集団である組織の円滑な運営と存続を果たしているという逆説こそが官僚制の本質の一部である。私と言えば、あくなき探求心を持って、この官僚制の探求に挑み続けたい。官僚制の可能性について考えることを、なぜか止めることができないのである。

西原真衣