呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

風力発電と蠢く町政(17)

  議員報酬引き上げ時に、要望書を中尾町長に提出したのは、当時の議長酒井祥成である。議会運営委員会にかけて異論がないと判断した結果であった。異論がないではなく、異論を黙殺したのである。勿論誰も、「議会は、合議制の議決機関であるので、議員報酬引き上げ議案に関して、議案上程前に意志を拘束されるべきではない。」などと発言しなかったし、議会が執行側に要望を出すこと自体も問題視されなかった。それは、本会議で、この議長酒井祥成が、要望書提出を「諸般の報告」中に含めて報告したことからしても明らかである。この人物は、議員報酬引き上げ要望書を町長に提出することに一切の躊躇がなかった。それどころか、この手法を考案し、実現させた自分のことを議会の功労者と思っているような節さえある。今回は、過去私が見聞きした、この人物及び周辺の議員たちの議会における発言を参考に、議会における十和方式について考察を試みてみたい。

 まずこの人物は、過去5年間、議会運営委員会委員長、政治倫理審査会委員長、議長であった。これらのポストはすべて、議会運営の主導権を握れるポストである。私にとって議会とは一義的には機能させるものであって、運営するものではないのであるが、彼ら、と言うのも当時の十和出身議員であった堀本伸一、橋本保、この酒井祥成は陰に陽に、議場を制御し、全員協議会(全議員の協議の場、会議期規則で正式に位置付けられ、原則公開で議事録も作成される)の議論を誘導し、執行部(町側)との調整役を果たしつつ、議会運営の舵取りをしようとする傾向が濃厚であったので、私は、彼らの手法を十和方式と命名したのである。十和出身議員には、橋本章央もいるが、彼は主導権権には関心を見せないながら、要所々で、十和法式に乗じる、こずるい動きを見せる十和方式コバンザメであると、見て取れた。尤もこの十和方式コバンザメ手法は、十和出身議員に限ったことではない。大正出身の水間淳一や味元和義にも十和法式への露骨な便乗で漁夫の利を得ようとする動きが、露骨に見て取れた。具体的に言えば、まず、橋本章央は、議員定数と議員報酬についての全議員からの意見聴取時には、定数削減で議員報酬据え置きと書いた。無難な路線である。橋本章央は議会運営委員会委員ではない。従って議員報酬引き上げの意思統一の対象者でもなかった。最終的には、本会議では賛成討論にも反対討論にも立たず、最後は起立して賛成票を入れた。閉会直後の全員協議会の場では、「反対討論に立った議会運営委員会委員は懲罰にかけるべきだ。十和では議会運営員会で決めことには、逆の立場で討論しないという不文律があった。」と勢いづいて強弁した。が、その直後の選挙では、「自分は引き上げ反対であったが、議会で決まったことである。」と弁明しつつ、今回は危ないからと支持を取り付けようとしたらしい(直にそう言われた人物から聞いた)。このふるまいの全貌はやはり、十和方式コバンザメ手法であるし、姑息でみみっちい事、群を抜いている。最初の意見聴取時に議員報酬据え置きと書いたのも理由があった。報酬引き上げと書けば、議会内部で言質を取られることが予想できたからである。しかしそれであれば、本会議で反対票を入れるべきではないか。賛成票を入れながら、「自分は引き上げ反対であったが、議会で決まったことである。」と説いて回ったことは有権者への虚偽報告である。議会内部では、意志を翻した議員に対して懲罰を唱え、自分は発言(アンケート記載内容)と異なる投票行動に及び、議会内部で何ら咎を受けなかったのである。十和出身の橋本章央は、議員報酬引き上げが、当初からの自明の目的(議会意志)であるので、報酬は現状維持と玉虫色で傍観しつつ(ここには地元の反感への配慮も働いていただろう)、本会議では賛成票を投じて議員報酬引き上げ実現へ舵取りを切ったのではないか。議会意志の存在が十和村議会では自明のことであったので、議員報酬を引き上げるという議会意志に対して、事前に反対して本会議で賛成しても議会内部で責められず、逆に事前に賛成して本会議で反対すれば、「議会運営の基本が分かっていない」と責められることを、十和時代に十分学習していたのである。十和村では、議会とは議長の指揮命令下にある組織であり、議員であることによって得られる物心両面の恩恵を議長(長)として全議員に施すことが、議長の腕の見せ所となる。実にこれは家制度、家父長制のアナロジーである。家長には、家の所属員の扶養義務があり、扶養義務の見返りが、家長に対する忠誠である。私から見れば実に奇怪な議会観ではあるが、よく観察してみれば、自民党の政党文化自体が、そもそもこの家父長制に根源があるように見える。家父長制国家観は、日本に特有の物ではないだろうが、自民党憲法改正案中の、「家族は助け合わなくてはならない。」の創出や「全ての国民は人(個人改め)として尊重される。」及び、夫婦別姓や同性愛や同性婚への嫌悪や無理解は、家父長制的な価値観から発生するものであることは、ほぼ間違いない。何と言っても家族は、家族外の何を犠牲にしようとも、家族内部では、常に平和裏に共存共栄し、自らの健全性と正当性を対外的に誇示するのが、習わしとなっている。これ有史以前から最小の生存単位として家族が存在していたことの名残だろう。しかし、このような価値観が、臆面もなく無自覚に議会に持ち込まれると、どのようなことが起こるか。実にバカバカしくも珍妙かつ有害なことが起きるのである。実は、これは事例の枚挙にいとまがない。ただ、四万十町議会では、本会議だけがケーブルTVで放映されているし、休憩時間中は、長らく菜の花畑に切り替わっていたし、今でも休憩時間中は、マイクが音を拾わないので、議会の営実態はなかなか知られるところとはならない。従って、本会義休憩時間や、議員だけの会議の場(傍聴者はまずいない)における議員集団の統制こそが、彼らの言うところの議会運営であり、彼らが、本会議以外の議事録が外に出るのを、異常なまでに忌み嫌うのも、全てここに根源がある。彼らにとって、議会とは、議論を通じて世論を喚起しつつ、公の意志を集結させて、意志決定を行う場ではなく、家である議員集団と、同じく家である行政職集団が、各々の内部統制と互いの相互調整を通じて、二元代表制という虚構の裏で共存共栄を目指す場なのである。この実態、言い換えれば、事の真相を正に体現していたのが、この酒井祥成であり、その疑いのなさが、議員報酬引き上げを成功に導いたとも言えるのだ。家族の構成員は誰も、家族間で配分されるで獲物の量が増えることに本気で抗ったりはしなかったのである。具体例を上げるとすれば、この酒井祥成の議会統制の有様は、以下のような様相であった。

 議会基本条例が平成23年に制定されて、慣れない自由討議が本会議に持ち込まれることになった。自由討議とは、議員間の討議である。制限時間は1時間、論題は、議長が事前に、その時の議題に関連させて一つ選定する。その時、まず口火を切ったのは味元和義であった。味元は常日頃から、十和道の駅やホビー館への補助金について、民間事業者(本人は製材業者である)の立場を常に強調しながら、「民間ではそうはいかない。」だの「民間ではとうの昔に倒産している。」だとかの常套句を発してきた。この時もここぞとばかりに、「補助事業の受け手が偏っているのではないか。」と発言した。味元和義に刺激されて、同じく十和の製材業であり、西部淡水漁協の理事でもある橋本章央がその尻馬に乗って威勢よく、同趣旨のことを発言した。私は、概ね四万十ドラマのことを示唆していると解釈しながら聞いていた。以前にも書いたが、四万十ドラマは補助金の取り方が、確かに突出していたからである。継続的に補助金を受け取っている地元企業の実態をつぶさに見た時に、その補助事業が、町の産業振興に確かに貢献していると、誰か確信をもって言えるのか。これは、重要な論点である。私は議員の時、補助事業の事績報告には随分と目を通してきたが、実績報告書を見ても、交付された補助金の使途内訳が分かるだけである。補助金は通常、事業者の申請によって審査を経て交付決定されるので、補助金申請時の事業計画書も必見である。その事業計画書には、その補助事業によって増すであろう将来の売上げ額の予想値も書かれている。補事対象経費総額と売上増加額を対比させる独自の計算式によって算定された、費用対効果係数が数値化され、それだけではないが、その数値を最重要指標として審査結果がはじき出される仕組みであるが、事業計画書を事後的に(補助事業実施後)開示請求しても、売上げ金額の将来的な予想値は、「企業の競争的地位に影響を与える」とか「意思形成過程情報」とか、「今後の同様の事務事業の運営に支障を及ぼす怖れがある」等の理由付けの基に、黒塗りで開示されるので、実証値と突き合せた達成率や効果を、行政組織の外側で、別途検証できないのである。尤も加計学園の時は事業の実績報告書の補助対経費の経費内訳部分が上記の理由で非開示とされた。通常ここは開示される。だから加計学園事件は汚職の疑いが濃いのである。差し当たってここが、現況での情報公開制度の限界である。私も開示請求によって上記文書を入手していた。行政が自ら議会に提示したものではない。情報公開制度を使わなくても、行政にそれをさせるために議会の委員会には調査権が付与されているにも関わらず、彼らは怠けてそれを行使してこなかったのである。平成30年12月の十和道の駅の指定管理者の選定議案時にも、十和出身議員(橋本保、橋本橋本章央)が発奮し、事前に根回しもあったようだが、四万十ドラマの指定管理者選定案を否決した。その際にも、閉会後に、「ドラマの決算関係書類は議員は見ることができないことになっている。」などと言い訳めいたことを触れ回った議員がいたと聞いた。これは、真っ赤な嘘である。私は、プロポーザル応募時に町が、決算資料の提出を要請していたので、開示請求で入手し、目を通していた。見ることができないなどは、相手の無知に付け込んだ詭弁である。真相は、「見ようとしない」だけである。情報公開制度も使わない。委員会調査権も行使しない。それでいて、議員報酬だけは、実に念入りな、内部統制を諮り、成功に導き、直後の選挙にもほぼ影響がなかった。つまり町民が見逃している。これは覚えてていい事である。

 本題に戻る。自由討議である。目に見えない場では、議員集団の共通の利益の実現に余念がない味元和義であり、橋本章央であるが、そしてその体質で、自由討議となれば、自分の見せ場を遺憾なく発揮するつもりであった。ところが制限時間間際に、中尾町長が挙手し、議長酒井祥成に発言許可を求めた挙句、「あたかも、公平公正な補助事業が執行されていないような印象を与える発言がありましたがケーブルを見ている町民の意皆様に誤解のないように申し添えます。私は、あくまで公平公正な補助事業を執行しています。」と発言したのである。ここで、タイムオーバーとなり、自由討議は終結し、暫時休憩となった。休憩室で、私は、議長酒井祥成に抗議した。「自由討議の最後に町長に発言させることはよくない。自由討議が、なし崩しになった。議員間の議論が結論には至れなくても、最後に町長にあのような発言をさせてはいけない。」酒井は、その時、「それなら今度全員協議会で議題に挙げればいい。」と私に応酬した。私の指摘内容を四万十議会運用基準上の規定として、議論するよう今後、議員だけの会議の場で議題に上げていけばいい、と言う意味である。「了解した。」と私は返事をした。ところが、酒井は、休憩室で課長連中の前で体面でをつぶされた、と感じたのであろう。その足で議会事務局に赴き、運用基準中に「自由討議中、許可を得て執行部も発言できる。」と書かれている箇所を見つけ出し、鬼の首を取ったような面持ちで、議場に戻っていた私の面前にそれを突き付けたのである。私は、「見落としていました。見せて下さい。」とだけ言ったが、「自分で取りに行け。」と怒鳴って、自席に向かった。それでも怒りが収まらなかったのであろう、有ろうことか、後部自席から全議員に向かって、「発言には今後気を付けろ。」と檄を飛ばしたのである。今度はこちらが収まらなかった。開会直前であり、執行部席にもほぼ全員が着席していた。そこで私は、「発言に気を付けなくてはならないのは、ここ(議場)にいる全員じゃないのか。」と切り返した。ここで酒井は切れた。「やかましい。」と怒鳴ったのである。決壊である。酒井の「やかましい。」で終わらす訳にはいかない。声の音量を酒井より若干張り上げて、「そっちこそやかましい。」と私も怒鳴り返した。ここで引き下がれはしない。この局面こそが、私の闘争心を焚きつけた。闘争心の向かう相手は酒井だけではない。中尾町長でもあった。議会とは議論の場であり、広報の場ではない。「補助事業の受け手が偏っている。」と発言されたら、「偏っていない。」と反論するには、まず偏ってない、具体的な理由及び証拠を提示しなくてはならない。それが全くできていない。単に相手が自分の印象をくすることを言ったので、即座にオウム返しに抽象的に否定してその場を取り繕うとしただけで、町長発言とも思えないレベルの低さである。不勉強な議員の発言が、与太話にしか聞こえないのと同様に、タイミングの取り方からして不見識な町長発言もまた、議会の品位を貶める効果しか持ち得ていない。更に休憩時間を挟んでの酒井祥成の議場での一件は、彼の頭の中身がさらけ出された一瞬であった。この人物にとっては、議会とは、中央から来る税の配分に預かる末端機構であり、例えて言えば、参拝に詣でる民が出合う神社の狛犬の如く、権力の番犬として機能すべきものである、と本気で思っているのだ。実に頭の中身が江戸時代なのだ。従って、「代官様に口を利くときは、十分に口を慎め。」が抵抗なく出てくるのであろう。これは合併後に私が議会で初めて遭遇した異文化である。私に取っては誇張なく、実に未知との遭遇であった。次回も、この酒井祥成と言う人物の言動に焦点を当てて、近場の未知との遭遇、十和という異文化探訪を続けてみたい。

四万十町議会議員  西原真衣