呆れた議員達の行状

地方議会の実態から日本を見る

地方議会から日本を見る(9)

   文化的施設アンケート結果速報

昨日12月24日に四万十町議会選挙が告示された。立候補の届け出は告示日の9時から

午後5時までである。昨日の午後5時をもって正式な立候補者が決定した。以下が立候補者名である。届け出順

1 田辺哲夫

2 佐竹将典

3 武田秀義

4 伴の内たまき

5 山本大輔

6 中屋康

7 緒方正綱

8 古谷幹夫

9 橋本章央

10 林健

11 堀本伸一

12 下元真之

13 中野正延

14 水間淳一

15 味元和義

16 中町博信

17 村井真菜

これまでのアンケート回答者は以下である。

2 佐竹将典

4 伴の内たまき

8 古谷幹夫

11 堀本伸一

13 中野正信

17 村井真菜

選挙中の回答率は極めて低いと予想されるが、当開票日までに得られた回答は追って公表したい。四万十町有権者の皆さん。投票の参考の一助にして下さい。

 

西原真衣

 

地方議会から日本を見る(6)

  「文化的施設」アンケート回収結果速報

 

  三通目の回答を得た。回答者は中野正信候補である。以下が回答。


 文化的施設についての新たな内部情報を得たので、この場を借りて報告したい。四万十町議会は、令和4年度第3回定例会で、「文化的施設の全面的木造化を求める陳情」提出者高幡木材センター理事長を否決している。四万十町は、令和3年度当初事業で事業費11億円相当を計上して、四万十町大奈路に大型製材工場「四万十製材所」を発足させた。国を挙げて推進している、「非住宅大型木造建築用の材」を提供できる大型製材工場である。日本は森林県である。さらに高知県は全国でも森林率が83%と断トツの森林県であり、それが故の「非住宅大型木造建築要の材を提供できる最新の製材機械を据えた製材工場は、目下高知県林業振興上の目玉政策でもある。「非住宅大型木造建築」に必要な構造材を生産できる町内発の「四万十製材所」を運営する高幡木材センター理事長名の陳情がなぜ四万十町議会で否決されたのかを追ってみた。議事録が未だ議会HP上で見れないので、事務局長に議事概要を聞けば、

構造計算のやり直しが必要となり、尚且つ構造材の木質化により若干単価が高騰し、資材価格の積み上げにも影響が及ぶ。

という一見もっともらしい理由で否決となったということである。文化的施設建設本体の賛否はさて置き、町が公費11億円を投入した製材工場が算出する新たな構造材を使用すること自体は理に適っている。大型補助事業と町の大型公共工事の自然な連動が本来あって然るべきではないか。単に「構造計算のやり直し」をすればいいのではないか。まだ建築工事着工前である。「資材価格の高騰」の試算値ぐらい出してから判断すればいいのではないか。抑々資材価格高騰自体は、事業のゴーサインのキー要素ではない。すれば議会の判断は「採択しないがための方便」に見えてくる。議会は、「四万十製材所」設立目的に補助金11億円を認めて来たのではないのか。それでいて、今後に及んでなぜ、「文化的施設の全面的木造化を求める陳情」が否決されるのか。確かに陳情が出たタイミングは構造計算が済んだ後であり、タイミングが遅すぎる。なぜもっと早く出さなかったのか、とは私も思った。がこれには裏があった。

 令和1年にプロポーザルが実施され、提案内容が審査会の最高得点を獲得し、基本設計と実施設計の設計事業者が決定した。スターパイロット三浦丈典氏である。それまでに基本構想と基本計画策定に4年が費やされていた。前にも書いたが、基本構想策定時点で、図書館業務内容本体やそれを実装するための建築設計の内容のあらましが検討されていれば良かったのはないか。ところが、「想像してみよう」とか「夢を語ろう」とかの「抽象的なビジョン」づくりが中心で、「何ができるか」「何がしたいか」と図書館コンサルタントARG岡本真主導で焚きつけられるだけで実の所地元選出の検討委員達は困惑の色を隠せなかったという実態があったのだ。この辺は議事録に詳しい。私は、今まで散々この実態を「事業中身の外注」と表現してきたのだが、実は大型製材工場事業主体の高幡木材センターは令和元年地のプロポーザル直後時点で、町に対して「文化的施設の全面的木造化」の要望書を出していたということが、分かった。それを受けて、令和2、3、4年に跨った基本設計、実施設計策定のための庁内会議の場で、建設課課長や元農林水産課林業振興室長後に総務課契約担当者が会議に出席し、「文化的施設の全面的木造化」を実装した実施設計のやり直しを設計者に対して提案していたというのである。その時の設計者スターパイロット三浦丈典氏の対応が、

「構造計算のやり直し」は納期の問題もあって好ましくない、及び広々とした空間デザイン上、構造材が木材では強度上問題なしとは言えない。

というものであったらしい。が、元々非住宅大型木材建築用の構造材に使える材である。耐えうる強度が保障されているのではないか。そもそも空間デザインは地元事情に合わせて改変可能ではないか。むしろ改変すべきではないか。納期も変更できない訳ではないだろう。設計者自体の仕事の効率、コストパフォーマンスへの拘りがないとは言えないだろう。結局その提案は会議の場で受け入れられなかったということらしく、結果として地元要望や事情より設計者の意向が優先されるという結果になったらしい。私にとっては非常に怪訝な印象しか残らない結果、会議の事の顛末である。これが、ごく最近知った会議参加者による裏話の内容である。これでは、町とコンサルタントのどっちが雇用主か分からない。そもそも地元満足度の高いものを作るのが設計者の本来の責務ではないのだろうか。尤も、是も繰り返し書いてきたが、「図書館コンサルタントや設計コンサルタントに主導権を握られているのは、町が主導権を握られるような町であるからである。」町職員全員が、とは言わない、が趨勢が、特に町長中尾博憲を初め彼が設置した「文化的施設整備推進準備室」の面々の内面に巣食う漠然としたコンサル(専門家)信仰のようなものから来る及び腰が醸し出す会議の場の雰囲気が、コンサル主導という事象を生み出しているのは間違いないだろう。「与しやすい」コンサルタントに見なされている町長や町職員を持っているということで、我々町民は、町とコンサルタントによって2重に愚弄されているような気がしてならないというのが私の正直な思いである。そしてそれに輪をかけて、コンサルタントの抗弁の口真似のような否決理由しか繰り出せない四万十議会がある。コンサルタント、町執行部、議会と実に三つ巴で我々町民は愚弄されているのではないだろうか。だからこそ町議選を控えて、まずは「言動」で議員を選んで欲しいと思うのである。政治は言語でできている。政治の実質成分は、言語である。だからこそ政治家志願者の発する言語に耳を澄ませて欲しいと心の底から思う。政治家も町職員も我々町民が雇用主である。雇用主である町民の意に沿わない被雇用者のふるまいの唯一の抑止力は、我々町民の持つ彼らの言語への監視力や注意力である。結局この監視力や注意力を維持し、パワーアップさせなければ、民主主義の中身は充填しようもなく、その結果我々の税が我々のために使われないということが起きるのは必定ではないか。11億円(四万十製材所)と23億円(文化的施設)の相互経済波及効果さえ生み出せていないのだから。

西原真衣

 

地方議会から日本を見る(5)

四万十町議会選挙に向けて「文化的施設」アンケート実施

 

 「文化的施設事業の休止を求める請願」否決を受けて、改選後の「文化的施設」動向を探る目的でアンケートを実施した。対象は、立候補予定者である。町議選の争点としたいとの思いもあった。四万十町有権者に、立候補者の選択材料を提供する絶好の機会だと考えた。ただ正直な所、有権者一般が政見で立候補を選んでいるとは思っていない。そこは地縁、血縁、或いは職場をはじめとする所属組織の意向を酌んだりの所謂「お世話になった」人を選ぶというのが通弊だろう、とは思っている。がそのような投票行動によって生まれた議会を見た時に、「なんだか、なんだか、これが議会でいいのだろうか。いいはずがない。」が自分の中で止まらなくなるのである。文化的施設には個人的にも関心を寄せてずっと見守ってきた。最初から腑に落ちない、妙に突発的で不自然な事業構想だと思い続けてきた。で今回の改選である。それで、アンケートを実施を思い立った。実の所回収率も極めて低いだろうと想定している。さらに回答公表手段もインターネット上の自分のブログしかないので、大方の立候補者が、選挙に影響なし、無視できると決め込んで、回答しないを決め込むだろうとの想定もある。

 アンケートは、立候補予定者とおぼしき全員に配布した。そして最終的には告示後に「立候補したにもかかわらずアンケートに回答しなかった」立候補者名も併せて公表したいと考えている。関連で言えば、本来は四万十町ケーブルテレビで「全立候補者政権放送と、有権者による質疑応答」を放映してくれたらいいと思うのだが、国政選挙以外は政見放送が禁止されているという、お粗末で誰のためにあるのかがさっぱり分からない法律である「公職選挙法」が厳然としてある以上、これは不可能である。昨今、地方議会のな成り手不足が新聞紙上で取り沙汰されていて、国が設置した「地方制度調査会」なる有識者会議の面々が、「休日議会の開催や、議員報酬の引き上げ、勤め人が立候補できる仕組みの構築」等々十年一日の如き御託を飽きもせず述べているらしいが、地方議会が成り手不足なのは、誰も地方議会など端からさじを投げて相手にしていないないからなのである。魅力がなく、そこに行けば政治を変えられるという感触も持てないから、議員になりたいという関心も意欲も喚起されないのである。成り手不足→議会の劣化→成り手不足→議会の劣化という負のスパイラルが止まらないだけの話なのだ。 なんだか人口減と歩調が合っている気がしないこともない。その結果、議会議員という権力装置に吸い寄せられる(議員バッジが大好き)タイプのそして、議員歴から選挙という手仕事に通じた無職か自営業者の高齢者男性連中が、「議員を続ける」ことを目的に立候補しているというが全国的な大方の趨勢である。一種の「中毒現象」のようなものである。年齢的、職歴的に議員でなくなることの寂寥感に耐えられない要素もあり、また仕事量の割には報酬がいいので、それを手放したくないという本音もある。「仕事量の割には報酬がいい」部分は、彼らは体験からそれを熟知している。この辺りは、地方議会よりむしろ国会議員に顕著かもしれない。新人は、一先ず未知数なのでこの類に分類してはいけないが、そのような実情を前にするからこそ、より一層アンケートを実施したくなったというのが自分の本音である。

 まず、アンケート文と、既に回答を得た2通の回答内容を公表したい。アンケート配付は立候補予定者説明会の場を借りて行った。その場にいなかったり候補予定者と思しき人には後日郵送した。回答を得次第、逐次公表したい。選挙告示は来年1月24日である。投票日は29日、何と選挙期間は一投票日含めて6日しかない。この間運動員を動員して選挙戦を戦うしかない。町内247箇所のポスター張りだけでも人員体制がものをいう。自民党が長年統一教会とズブズブつきあってきたのも、統一協会が大量に提供する選挙ボランテイアを当て込んでいたのは間違いない。結局選挙制度自体に深い欠陥があるのだろうが、そこは等閑に付されている。国が設置した「地方制度調査会」などに審議してもらうこともない。大きなお世話である。地元有権者が、地元議会に関心を持ち議員を厳しく常時監視すればいいだけである。その直接選ぶ側の「圧力」で議会が今のようでいられなくなったらしめたものである。「圧力」で人は動く。「御託」では動かないのだ。「地方制度調査会」などという子供騙しなことは止めるべきである。国に地方を上から目線で一方的に調査されることなど端からないではないか。当事者つまり選ぶ側、主権者が自らが調査すればいいのである。

以下回答である。

回答1、氏名:伴の内たまき氏

回答内容:身の丈にあった施設の建設を

回答2.氏名:堀本伸一氏

回答内容:

www.dropbox.com

 

今の所回答者は、残念ながらたった2人。回答が返って来第次第追って公表したいので、「文化的施設事業の休止を求める請願」署名者3596名(何と有権者の1/3、町長をリコールできる署名数である)をはじめ文化的施設事業に関心を寄せる四万十町有権者の皆さん、是非、投票時の参考にして下さい。

 

西原真衣

地方議会から日本を見る(4)

          請願叶わず

 

 「四万十町文化的施設事業の休止を求める」請願は、7対6で否決された。請願署名者としては、予測通りとはいえ、新ためて憤懣やる方ない。投票行動も完璧に予測取りであった。先に結論ありきの議会だということである。互いの議論に影響を受けないということは、即ち議論の本質が失われているということではないか。賛成派と反対派の論点が全く噛み合わないのだ。

一先ず質疑、討論内容を議員毎に概観すれば、

賛成派

中屋康:後援会の会計が、この事業の受注者となりそうな公算の強い地元土建業の会長職にある人物である。地元土建屋への利益誘導の感が免れない。地元利益誘導=自己利益誘導(次回の票の確定)という方程式の実効性が成り立っている議員

林健;子息が地元森林組合工場長であり、当人も森林組合理事であり、元林業家である。大型箱物公共工事への資材提供の機会逸失を避けたいという意向が働いている感が免れない。

酒井祥成:生業は、特産林業(シイタケ栽培)であり、議員歴が長い。行政手続きの正当性と補助金の返還リスクや有利な起債の機会逸失を常々訴えてやまない。元々行政の番犬のような思考回路の持ち主である。おそらく自前の体感に基づく「行政権の絶対性が自己の権力の根源である」という思想の持ち主。従って行政監視、行政批判という視点は希薄。前近代的であること夥しい。

槙野章:農協職員上がり。定見に欠け、投票行動においては常に執行部提案側につく典型的な日和見主義者、討論に立つことはまずない。論自体の中身がないのであろう。

執行部支持を背景に補助金の地元誘導を図ろうとする傾向が常々見受けられる。又普段の議員活動のあらましは「御用聞き」である。住民を戸別訪問し、使える補助金等を案内して回るのである。これが悪いとは思わない、が当時者が直に町に聞けば済むことである。「使える補助金」を直に行政に問い合わせる事に臆する(行政との距離感がある)一般町民の御用聞きをしているのである。この地の地域性に根差す隙間産業的な議員活動に専心している模様。が、この「御用聞き議員」は、町民の意見を2分するような政策論が絡む投票行動においては、「補助金」の出何処(執行部)には、決して逆らわないという行動が定番。このような議員が多数票で議席を得て来たことは、結局民度の問題だろう。

吉村アツコ創価学会の組織票で上がってくる、座席を温めることが仕事である議員

この人物は、質疑がまずない割には、なぜか一定間隔で一般質問を行う。漢字の読み間違いが多発する所を見れば、公明党による作文提供の感は免れない。議席を温めつつ投票行動においては、牧野章議員と同様、常に執行部側につく。公明党が派遣元の派遣社員の様な議員である。是では町民代表と言えるのか、甚だ疑問。常時、公明党自体の見識を疑いたくなるような低レベルの議員。

橋本章央:元製材業、生半かな知識で議場パフォーマンスを展開する癖がある。立ち回りの総体を見れば、明らかな自己利益誘導型。地元票へのアピール目的での賛成票の感が強い。この議員の場合、「にわか仕立て見せかけ正論」が敗退に追い込まれる箇所が唯一の見所。この箇所が一点あった。修正案提出時に、勢いよく、「事業休止に賛同する議は、休止したらどうなるかを町民に示すべきである。それを議論した上での休止賛成か」と修正案提案議員である古谷議員に質疑した際、古谷議員が、「休止とは一定期間休止若しくは事業の見直しに進むということを意味すると理解している。まずは、3600筆近い署名に正面から向き合うことが議員としての誠意ある態度」と答弁した途端、橋本議員は、「よくわかるました。これ以上質疑はありません。」実にあっけなく引き下がったのである。実に珍妙な対応ではないだろうか。その意味で橋本議員は、実に底が浅い。このような子供騙し底の浅さで急十和村議会以来、議員が務まってきたということこそ、合併後もその風土が何ら変遷、淘汰もされず、議会に持ち込まれているということにこそ注意がいるのではないか。彼らの地域性に基づく政治風土が実に色濃く今の四万十議会に影を落としている。

緒方正綱:この人物は地元土建屋の社員と議員を長年兼業している。地元土建屋が潤う公共事業には決して異を唱えない。防災が得意分野。中屋康後援会事務所の看板の文句は「町民の皆様と共に」であるが、緒方正綱の場合は「土建屋の皆様と共に」であろう。この議員においては、地域密着型公共工事の情報取得=組織票の獲得という方程式が成立している模様。結論から言えば、いささかうんざり感の漂う無個性にして徹頭徹尾自己利益没入型のサラリーマン議員。

 

反対派

古谷幹夫:資材高騰に伴う追加継続費7億の修正動議の提出者、嘆願書(700名)、陳情、請願書(3596名の署名)に表現された「事業見直し」を求める民意の尊重を訴えた。文化的施設に関しては首尾一貫して規模に疑義を呈してきた。が、執行部に対して、「町による図書館利用者アンケートの実施」や住民投票の実施を促してはきたが、教育民生常任委員会委員長の立場での町民意向調査アンケートの実施には着手しなかった。その辺りの出遅れ感や踏み込みの足りなさは否めない。事業推進一択の町は アンケートを実施するにしても、「文化的施設の建設を望むか」という民意の根底を知ろうとするような項目は決して設定しないだろう。町側は、元々民意がそこにない事を熟知しており、そのことに頓着していない。古谷議員はその辺の認識が極めて曖昧模糊としていないだろうか。これでは到底執行部を出し抜けない。町側に情報戦で、完敗してしまうのが落ちである。

 

武田秀義;陳情や請願の協力、後押し議員であった、一貫して規模、立地、複合施設である必要性に疑義を呈してきた。今回の討論でも、「議決によって認めてきたとは言え、票は伯仲していた。合併特例債は返還すればいい、全有権者の1/3に相当する民意が無視され続けてきた。」といつになく強い口調できっぱりと言い切った。「サービス計画は素晴らしい.これは規模縮小でも実現できるのでは。」と本質を突く論も展開していた。ここは評価したい、だが古谷議員と同様、いささか遅きに逸しているのである。武田議員は、「なぜサービス計画を先に立てなかったのか。そうすればこのような規模が必要ないと理解できる。」と畳みかけてはいたが、基本構想、基本計画策定時にそれを指摘すべきであった。結局武田議員も図書館業務本体に全く通じていないなかったからこそ相手側の思うツボに入ってしまっていたのである。「サービス計画」策定のために大河原信子氏という外部人材の登用が必要であったのは「四万十町には図書館業務の何たるかを理解している職員が皆無だった」からであり、それは議会も同然であったということである。そもそも美術館はおろか図書館に普段馴染みのない人々が、図書館構想を持てるわけがない。だからここもコンサルタントに外注した。町に雇われたコンサルタントは町の意向を酌んだ作文の専門家である。自明のことではないか。「そもそも町立図書館が公設され、公費で運営されていることの意義に関する認識」自体が執行部、議会、町民を含めた町全体に欠落していたのである。ただ図書館は無料貸本屋の如き姿で、そこにあっただけである。もし議員の誰かが、「そもそも町立図書館が公設され、公費で運営されていることの意義に関する認識」本体を中尾町長にぶつける直球質疑が早い段階で繰り出されていれば。事業構想の根幹となるべきこの認識が中尾町長に完璧に欠落していることが、誰の眼にも露わになったはずである。議会質疑の深度が浅く、狙いが定まらないような質疑=疑似餌では釣果は全く期待できない。議会質疑の本来の目的は 釣れた魚の真の姿を衆目に晒すことにある。議会とは物事を明らかにし、明らかにすることによってより良い町政の方向性を見出していく場なのである。そのために必要不可欠なのが、議員各自の独自の情報取得と塾講を経た視点である。視点の構築には長期に渡る自己研鑽を必要とする。結局議会総体として、それができていない現実そのものが、町民の目に晒されたと言えるのではないか。

 

下本昇:下元議員は、執行部に対してだけでなく、議員対象にも自分の独自視点を提示してきた。例えば、「子どもの未来への投資」をスローガンにしてきた文化的施設構想に関しては、ずっと以前から、「学生の動線上の学園通りへの立地」を提案したり、「複合施設ありきの規模設定」に疑義を呈してもきた。この人物は商工会会長職時代にも、岩本自前の門前市等の実施主体の責任者でもあり、旧庁舎跡の立地理由として「窪中心市街地活性化」の困難さを体験している立場でもあった、がこれが、大正、十和出身の議員には全く響かない。彼らの独自視点は、徹頭徹尾別の所(自己の地元票が絡む情勢判断のみの視点)にあり、端から聞く耳を持たないからである。下元議員は議長になった頃、文化的施設調査特別委員会の設置を議会に投げかけた。が、「誰も乗ってこなかった。」ということも議会関係筋から耳にしている。

 

村井真菜「十和では図書館が取りざたされた事もない」と討論した。是は事実であろう。そのような文化風土であろう。請願紹介議員でもあり、地元で署名活動に熱心に取り組んでいたとも聞く。「民意のこれほどの分裂がある以上、町民が自発的に参加したくなる「コミュニテイ」づくりにはならない」と身振り手振りを交えて力説した。この辺はこの人物の本意だろう。この辺りの心情は理騎できる。が、議会はただ心情を披歴する所ではない。村井議員自身が町が文化的施設事業に織り込んだ「コミュニテイ機能」とは何か、について本質的な質疑を積み上げてはいない。平成28年の基本構想策定時に町立図書館内で実施された利用者アンケートは集計分析活用されることもなく、やっつけ仕事みたいな単なる自由記帳欄に記入された意見の一覧表が基本構想検討委員会で配布されたのみであったのだ。この一覧表を入手した当方は議会事務局を通じて全議員これらを配付してもらった。議会質疑に活用して欲しかったからである。が議員の誰も、そのアンケートの集計分析を試みなかった。村井議員もその一人である。町がコミュニテイの創生を本気で志向するならば、まずアンケートから何らかの図書館利用者コミュニテイの全体的な意向の傾向を救い上げようとするだろう。が、町は、

そこに記帳された図書館利用者の200を超える意見は、集計もされず分析もされず、掬い上げられることはなかった

議会も又同じ態度を取ったということである。だからこそ村井議員一人が本会議という表舞台で「いくらコミュニテイ分断論」を心情豊かに訴えても、「本人はそう感じるんだろう」以上のことは伝わってこない。まず櫂より始めよなのである。その意味で味押し並べて議会は誰も本来できる事をやっていない。たった一人でもやればいいのである。言葉に迫力と説得力が欠けているのはそのせいではないか。

 堀本伸一:この人物は今回は、「請願採択=町民主権の尊重」を議会基本条例やまちづくり基本条例を引き合いに出して主張した。「過去の予算を通した責任、第2次総合振興計画中に書き込まれた「複合施設」も議会が認めて来た(賛成派の言い分)ことの重みは十二分に理解するが、議決結果に従わないことは違法ではない。」と切り返した。議決があって、今回の継続費の追加予算計上がある、これが議決権が執行権に与えた権能であり、議決の重みとやらの実質である。賛成派の「議決結果に従うべし」というのは都度の表決権そのものを否定するような暴論である。都度表決できる制度になっているではないか。従ってそれは無責任でも何でもない。が、今回の「請願採択=町民主権の尊重」この堀本議員の言い分には、当方の知る堀本議員の過去の発言と明らかな矛盾があり、怪訝に思わざるを得ない。当方が議員であった時、全員協議会という議決の場ではないところで、単なる議会内部の申し合わせに過ぎない案件を指して、「我々は町民から選ばれた。従ってここ(全員協議会)で決めたことは町民が決めた事である。」と当時の橋本保議長と共に、私及び傍聴者に対して強く言い放ったのである。町民は「我々がここで決めた事(議会内部の申し合わせ)」など毛頭知らされていない。町民が知り得ないこと(議会内部の申し合わせ)に基づいて運用されている議会が町民主権に基づき、民意を反映する意思があるとはさすがに言えないだろう。ここ辺りにこの人物の発言の裏表がある。本会議では町民主権と言いながら、町民の目の届かないところでは、「我々は町民から選ばれた。従ってここ(全員協議会)で決めたことは町民が決めた事である。」と言い抜けることに躊躇がない。この言い分からすれば「我々は町民から選ばれた。従ってここ、本会議で決めたことは町民が決めた事である。町民が決めてきたことの延長にある今回の従執行部提予算を修正する所以はない。」と主張すべきではないか。堀本議員は、時と場を錆び分けた狡猾で老獪な二枚舌を使い分けている野ではないか。得意技は印象操作。是は当方に対する議会決議である辞職勧告及び懲罰時にも如何なく発揮された。

 

水間淳一:今回で賛成から反対に鞍替えした。その真意は、請願の署名数の多さや漏れ聞こえてくる次期町議選の立候補状況から票読みの情勢判断にありそうである。と言うもの、請願の趣旨には全く言及せず、合併直後教育長時代の図書館視察体験を唐突に持ち出して、「狭い、老朽化が著しい」という課題を認識していた。」と振り返りつつ(賛成派であったことの言い訳か)、その後に是も突如、「天の時、地の利、人の和」などという孟子の言葉を持ち出して「「人の和」が合い整っていない(請願署名を指す)ので反対する。」と結論付けたのである。討論内容に賛成から反対への変遷も含めた骨格と論理がほぼ見えてこない以上、選挙への影響という情勢判断が最も強い本人の鞍替え動機であるということを自白しているような討論内容となってしまったのではないか。この人物のいつもの行動パターンである。「選挙が政治」という持論の持ち主。

 

 過去に議会に席を置き、その後も議会傍聴を続けてきた当方の視点からの、今回の投票行動を議員毎に概観してみた。各議員には、其々の癖があり、個々の利害得失及び思考回路がある。多数決とは、本来バラバラな民意を代表するための民主的手続きにおける意思決定に至るための最終手段である。されど議決を経なければ予算は執行できないのである。そのような強大な権限を有する議会には、それなりの、制度、法律 条例、財政、施策等に対する知見が必要とされる。民意の察知力は言うまでもない、当たり前のことである。これらの各次元での各議員の水準の総体的な見立ては、正直な所あまり芳しくない。「表決の結果の尊重」が紋切り型に賛成派議員から主張されたが、この表決の重みは、単なる地元票、利害得失を超えた、各議員の知見の豊かさと確かさによってのみその質が担保されるのはないか。民主主義(議会)が機能するか否かは一重にそこにかかっている。本来バラバラな民意の代表制の質である。表決の重みを結果論だけで語るのは魂胆丸見えの御都合主義である。議決権という権能だけを振りかざしているかの如き有様ではないだろうか。表決の質はここでは不問にされている。表決の結果だけが強調され、その質が重みの評価基準とならないような議会は、各自が自分の名前で選ばれる意味もどこにあるのか分からなくなってなってきはしないか。そう考えれば、結局選ぶ側の判断の重みが表決の重みに直結していることに気が付く。常日頃から議会形式の重鎮気取りの酒井祥成議員の思想、「行政権力の絶対性が議員権力の淵源である」(権利意識と主体性に目覚めていない、より力のある側への服従、追従を旨とし、議会とは、絶対的な行政権が持つ予算の下賜配分に与るものという思想、つまりマグナカルタ(代表なくして課税なし)が未だ内面化されていないという持つグロテスクな前近代性の淵源もまた彼を選んでいる選挙民の中にその淵源があるのだろう。実際の所新興ブルジョワジーの台頭が王の課税権の制限につながった(と歴史で習った)が、十和には、地域商社はあっても独立自営業者の層が極めて薄いのであろう。そのような地域性がそのような政治思想を持つ議員を生み出しているのだ。結局淵源は常に選ぶ側にあるということである。ここでその淵源、地域性の意識を探る目的で、賛成派の言い分を再現してみよう。全員が全く同じことを判で押したように繰り返したことの異様さに着目したい。事前の根回しが疑われる。

※ 行政は粛々と正当な手続きを踏んで来た。

※ 休止すれば、町に損害が及ぶ。

※ 資材高騰はやむを得ない事情である。事業休止の理由にならない。

※ 議会には議決によって町のやり方を認めて来たことの責任がある。

彼らはなべて行政の番人であることで、自己利益を引き出して来たのだろう。議員報酬引き上げの手口がそれそのものであった(町長に要望を出して町長から提案してもらった。)結局、主権者意識が最も希薄なのは、実の所彼等議員自身ではないか、と思わざるを得ないのである。主権者意式があれば、議会基本条例に基づいて、議員自らが議員報酬引き上げ議案を上程し、町民の信を問うべきであった。選挙への影響を回避したい一心だったのだろう。主権者意識が希薄な議会を持っていることは、町民にとっては不幸でしかない。何も生み出さず、議員間議論を通じた切磋琢磨もなく、その結果町民を巻き込んだ共感、相互理解にも至れず、議員バッジという飴玉をしゃぶらされながら、票のために、行政と結託した一部の強欲な人間の利益のために尻尾を振って奉仕する寒々しくもうら寂しい駄犬集団の如き議会の姿が今回はっきりと町民の一定層の鏡に映っていることだろう。淵源である町民にも様々な層があり、特に合併後にはそのモザイク分布が議会決議に影響してきた。が、とにもかくにも、より良い方向性を見出すための真の起点はそれを見る主権者一人一人の視点、見る目であることに変わりはない。今回提示したのも自分という一主権者の視点に尽きる。自己の視点を示すにもこれほどの他者への関心と文脈の提示がいるということである。その多岐に渡る文脈で構成された視点が説得力のある質疑となって議会で戦わされるような議会を我々は果たして見たことがあるだろうか。

西原真衣

 

 

 

 

地方議会から日本を見る(3)

  「文化的施設一時休止」を求める署名活動

 当初の16億円から23億円に総事業費が膨れ上がった四万十町文化的施設の規模縮小を求める署名活動が進行中らしい。賛成である。当方も署名したい。残念ながらまだ署名容姿が届かない。署名に賛同している現職議員には下元昇氏。武田秀義理し、古谷幹夫氏等の名前が挙がっている。12月定例会に、上記議員のいずれかを請願紹介議員とシテ議会に請願が提出される予定らしい。12月定例会には、増額分の予算が継続費として計上される予定らしい。賛成と反対が拮抗してきた中で、四万十町民の民意が代表される分水嶺となる議会となる可能性が高い。が翌年1月の改選を控えている以上、今議会の意向が次の議会の議会にどう引き継がれるかは予断を許さない。

 

 署名活動の主催団体名は、「四万十町の未来を考える会」代表者は、浜崎康子さんと聞く。この署名活動の存在を広く町民に知ってもらいたいものである。知人、友人経由で人海戦術で署名を集めて回っていることだろう。大変な労力である。そこで、四万十ケーブルテレビの伝言板を使えないか、所管課の企画課に聞いてみた。ケーブルテレビは町が放送事業者である。町費でインフラ整備、保守点検、機種更新の全てを賄ってきた。通常の運用も毎年3500万円相当の指定管理料で賄われている。元々公社自体、町が設立した公益財団法人であり、設立時の基本財産10000万円も町費から出ている。言わば、四万十町NHKである。それならば四万十町民個々に法的に保障された請願権の発動の機会の拡充、つまり署名活動の告知をすることは、やぶさかではないだろう、と考えたからである。公社本体は期待薄である。独自判断できる力量は怪しい。こう言うのはそれなりの理由がある。まず公益法人は定款尾公表義務がある。定款はHP上で公表されているが、肝心な説明責任を担う「情報公開」に関する条項が、「情報公開規程で別途定める」とある。それであれば、情報公開規程を含めて定款の全貌である。情報公開規程自体もHP上に掲載して欲しいと公社に申しれ入れた。がこれが予想外に難航した。理事会の議題にさえならなかった。結局「判断不能と結論づけるしかなかった。「情報公開規程」を公表して「情報公開による説明責任が求められる機会が増える」ことを回避したいということであろうと推測するしかないではないか。少なくとも先代の農協組合長の経歴を持つN理事、その前の役場退職者と言う経歴を持つN理事長は明らかにその様な態度を取った。今の、地元土建屋の会長職にあるT現理事長になってやっと、「情報公開規程」と「役員報酬の支払基準」が公表された。が、ここに来て昨年6月における役員報酬改定議案が上程された理事会、評議員会の議事録に議案提案理由及び審議過程の記載が一切なかったので、議事録の底にその部分を追加するように申入れたが、これは実質拒絶され、この件に関する理事長の説明を直に求めたが、是は拒絶された。ここまでがこの公益財団法人の説明責任の上限であるらしい。以上が公社絡みの当方の経験値なので、公社の伝言板使用に関する独自判断など到底期待できないのである。ところで四万十ケーブルテレビは町が放送事業者である。開設時のインフラ整備(16億円相当の財政投融資資金が投入)その後の莫大なリプレイス費用も全て町費で賄われて来た。四万十町の公共放送ならではの事である。独占的に町の放送事業を受託している公社には、町に準じた説明責任が議事録の作成と公表面でも課せられているのではないだろうか、ところが元理事は、議題の提出者でありながら、議事に関する必要最低限の説明責任を町民に対して回避したということである。

 

 ここで、署名に戻りたい。文化的施設に関してはこれでもかこれでもかとばかり、ケーブルテレビを活用した行政放送が繰り返されてきた。文化的施設関連の子供議会、ワークショップ開催、住民説明会等が悉く取材、放映の対象となってきた。公共放送は実に町の目玉施策の広報、宣伝、周知に多大な貢献を為しているのである。が、文化的施設には住民間に一定の反対意見が存在する。昨年町に出された嘆願書、陳情書、公にはなっていないが、文化的施設建設の全面的に否定的な内容を持つ要望書の類が、町や議会に届けられた反対意見である。「反対意見は確実に存在している。」町民間にも議会にも、これは紛れもない事実である。そして今回の署名活動である。ケーブルテレビの伝言板に、「署名活動やっています。署名用紙は、どこそこに備え付けています。賛同してもらえる人は、署名をお願いします。」と言う告知を載せられないか、と問いかけたと言う訳である。ケーブルテレビは公器である。町長施策の広報のためにだけあるわけではない。反対意見の可視化でもあり、反対意見を持つ人の意見表明の機会の拡充で機会の提供はむしろ公共放送が担うべき役割ではないだろか。ところが結果どうなったか。結論から言えば、「NO」である。所管課である企画課K課長から示された、伝言板の使用を許可できない理由とは

「放送事業者である町が放送法に則って制定した放送基準にそぐわない」

行田博文町顧問弁護士に相談したところ、「署名活動は政治的行為であるので「放送基準に」ある「政治的公平性」に抵触し、その観点から伝言板の使用は推奨できない。」と示唆された、というのである。どうもその真意は、反対意見のみが掲示されることが「政治的に公平でない」ということらしい。さらに町の顧問弁護士の解釈=町の解釈ということらしい(そうでなかった試しを当方は知らないのだが)かくて、伝言板は使わさないとなった。だが翻って考えてみれば、行政側が、公表放送の放送主体であることをいいことに、文化的施設推進目的の広報、宣伝を公共の電波を使って散々やってきたこと自体が、正しく「政治的行為」その物であり、その「政治的行為」には「政治的公平さ」は求められないのだろうか。ここは全く規制が掛からないのである 公平でないのはむしろこの現状そのものではないのだろうか。反対署名活動の周知はこのアンバランスの是正の機会になり得るのではないか。政治的公平が懸念されるのであれば(公平さにバランスを求めるのはおかしなことではない)伝言番中に、「賛成意見を持った団体の署名活動等があれば、それも告知可能ですのでご活用下さい。」と但し書きをして、政治的中立性、公平さを担保すればいいのではないか。勿論、賛成者は署名活動など通常しないことを承知の上で言っている。通常利害得失が絡む賛成意見とは首長の政治行為と互恵的であり、署名活動等とは本来馴染まないのである。。利害得失という強大な関心の渦中にある彼らは常に権力と意を通じていて一般町民の無知や無関心を出し抜いてもいるし、推進側の町自体がある意味彼らの代弁者(利害得失自体には、表立っては触れない)なのである。是を一般的に「利権構造」と言う。だからこそ、そこにこそ本来の公共放送の出番があるのである。賛成意見と反対意見の各論併記などという見え透いた公平さのまやかしに基づく「反対意見のみの表現の機会の提供は政治的公平さに欠ける」という顧問弁護士による放送基準「政治的公平」の解釈にもまた、中尾町長の意向を酌んだ町顧問弁護士による政治的含意のある解釈の一環なのであり、その意味では「政治的公平さ」などと言うものは、「真空」が存在しないが如くこ存在しないのである。権力は常に中立を標榜しつつその政治的含意を浸透させていくのである。権力とは、有体に言えば、「公金の使徒を一方的に決めれる。」ということであり、同時にその「一方的に決めたことの正当性を広報できる媒体を手中にしている」ということである。この物量戦に常に我々は惨敗する運命にある。が、公文書が我々の文書であるように、公共放送は我々の放送なのであり、公金とは我々が政府に負託している金銭である。この機会に、現況では決して共有できているとは言い難い、この原則を多くの町民間で共有したいものである。この認識抜きに民主主義は機能しない。

 

 嘆願書、陳情書、要望書、今回の賛同署名を求める本文全て、内容、主張、視点は異なれど、特定の利害得失から出てはいない。直に利害得失は絡まずとも、公費を使った大型箱物事業関心を持ち、より納得できる方向性を手弁当で模索しているこの町の一般住民に対しての町の目線や本音がどの辺にあるかが、伝言板は使わせない。」という今回の町の判断からよく透けて見えてくる。ところで「政治的公平さ」の解釈は図書館の選書機能にもついて回る観念である。現状の様な解釈の未熟さ、偏向をもってしては新図書館の「選書機能=図書館の本義及び図書館イベントにおける政治的公平さの実現」に期待する方が無理である。底の浅い政治的公平を標榜する現状と同じ様な未熟な「図書館もどき」が新しい革袋に充填されるだけであろう。その革袋の調達に23億円も使うほど愚かであることを我々は、町によって強要されるのだろうか。方や、町民から出た文化的施設の中止や規模縮小を求める各意見書は町に対して相応の礼節と抑制を持て提示されてきた。ところが町の方は、異論に対して一切真摯に向き合おうとしないのだ。町の側に、異論を知り、理解しようとする気配が全く感知できない。「知ることは、対峙する事。である。町民意見を知り、理解しようとしない、若しくはその能力と意欲共々に欠く町が、住民の知る権利の保障を制度化した「図書館」を作ろうとしていることの暗澹たる事実に目を見開く必要があるのではないか。中尾博憲町長が新図書館について語れることが、ただ二つの単語「森の幼稚園」「寺子屋」であるという悲惨な実態をどの位の町民が知っているだろうか。議事録ウオッチャーである当方は良く知っている。悲惨至極極まりない。無投票2期目通算9年目に入る中尾博憲町長率いる四万十では、これほどまでに文化斫る庁内環境が醸成されてしまった。「中尾博憲による文化的施設」、彼が持ち合わせている「凡庸」「愚昧」という解毒剤(「凡庸」「愚昧」は人に安心感を与える)で毒抜きされた、常温下で存在し役場職員間で増殖を続ける中尾博憲由来の妙な腐敗菌がこれほど立ち込めた施策も近年見当たらない。

 

西原真衣